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A good listener is not someone who has nothing to say. (Katherine Whitehorn)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション conversation のなかで、以下の文が私を惹きました。

    I have but ninepence in ready money, but I
    can draw for a thousand pounds.

    Joseph Addison (1672-1719) British essayist.
    Comparing his ability to make conversation and to write
    Life of Johnson (Boswell)    

 
    That is the happiest conversation where
    there is no competition, no vanity but a calm
    quiet interchange of sentiments.

    Samuel Johnson (1709-84) British lexicographer.
    Referring to W.H. Taft, US president (1909-13)
    Life of Johnson, (J. Boswell), Vol. U    

 
    Beware of the conversationalist who adds 'in
    other words'. He is merely starting afresh.

    Robert Morley (1908- ) British actor.
    The Observer, 'Saying of the Week', 6 Dec 1964   

 
 一番目の引用文は、「話題の豊富さ」 についての意見です。Joseph Addison 氏は essayist なので、文を綴るための話題を探す事は上手だったのでしょうね。私は、この引用文が収録されている Life of Johnson を読んでいないので、Addison 氏がいかにして draw for a thousand pounds ほどに話題をひきだすのかを確認していないのですが、われわれにも、それはできるのではないかしら。私は、気の置けない仲間たちと酒を呑んで話すのが好きです。私はけっして話題を豊富に持っている訳じゃない。というのは、私の一日は、ほとんど書斎に閉じ籠もってひたすら コンピュータ 技術について考えることしかしていないので。酒の席で話題が途切れないように私の配慮している事は、相手が話した テーマ に関して、定義・類語・反語を考えるという事です。たとえば、「定義」 としては、相手が言った テーマ について、「面白いなあ、もっと詳しく教えて」 と言えばいいし、「類語」 としては 「似ている事物として しかじかが考えられるけれど、どう違うの?」 と言えばいいし、「反語」 としては 「でも、反対に しかじかの事が考えられるけれど、どう思う?」 と訊けばいい。そうすれば、相手は話をさらに進めてくれるでしょう。じぶんが話すときも、定義・類語・反語を使って話を拡げることはできるでしょう。だから、話題を豊富に持っていない事など嘆くに及ばない。勿論、話題を豊富に持っていれば話は尽きないのですが、話題が少なくても、一つの話題を掛けあいで拡げてゆけば、話の花は咲くでしょう。ちなみに、「反 コンピュータ 的断章」 の エッセー 群を私は そういうふうにして綴ってきました──Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations の中から一つの語を選んで、その語を起点にして私の思いを (その語の定義・類語・反語を考えて) 綴っているだけです。

 二番目の引用文が述べている a calm quiet interchange of sentiments は、そうとうに気心知れた仲間同士 (親友) じゃないと ムリ でしょう。そういう会話のできる状態こそが 「友情」 の証しであって、恋人同士や夫婦でも ほとんど ムリ じゃないかしら──恋人同士や夫婦でも、そういう状態はあるべき姿 (理想形?) なのでしょうが、実生活の中で共同生活をしていれば 「和して同ぜず」 という状態は難しいでしょう。無条件で恋人・夫婦であること、そこにはかならず 「恋」 が絡むので──べつべつの個性でありながらも一体感を望むので──距離感が難しい。恋人・夫婦というのは、ショーペンハウアー 氏の描いた 「二匹のハリネズミ」 に似ているのではないかしら。そして、夫婦の自然な距離感は、老年になって やっと醸成されるのではないかしら──勿論、長い夫婦生活の中で、たがいに幾度も苛立ちを体験したうえで。[ この文が カミサン の目にふれたら困るなあ、、、(-_-;) ]

 三番目の引用文を私は賛同して記載したのではなくて、この引用文を読んだときに、テレビ 番組の或る討論会を思い出して、その番組の中で、或る エコノミスト は話しはじめるときに 「でも、」 を多用していたのが私には奇妙に感じられたので。その人が使っていた 「でも、」 は逆接 (「それでも」 の略) の意味じゃなかったので奇妙に感じたのです。その人の使っていた 「でも、」 は、in other words の意味だったという事が この引用文を読んだ時にわかった。たとえば、以下の会話のように──「友だちと酒を呑みながら ダベ るのは愉しいよね」 「でも、気持ちいいよね」。私の語感では 「でも、」 の こういう使いかたは奇妙に響くのですが、最近では普通なのかしら。

 
 (2012年 3月 1日)

 

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