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Many would be cowards if they had courage enough (Thomas Fuller)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション cowardice のなかで、以下の文が私を惹きました。

    None but a coward dares to boast that he
    has never known fear.

    Marshal Foch (1851-1929) French soldier.
    Attrib.

 
 この引用文の意味を掴むためには、dare という語と時制 (that 節の現在完了形) を注意していなければならないでしょうね。dare の意味は、be bold enough (to do) すなわち (coward の反対概念で、) have the courage to try です。文意は、「おくびょう者の他には 『いまだかつて恐怖など覚えた事はない』 と敢えて [ 勇んで ] 自慢げに言う人はいない」。dare to boast は coward の ウラ 返しなのでしょうね。この引用文を軍人が言ったということが──ただし、attrib. と記述されているように、そう言ったという事は推測ですが──妙味でしょうね。

 生活の中の どんな局面であれ、凡そ、boast (= brag, exaggerate) な態度は自然 (honest) じゃない。私は、かつて、「高慢さが芸になっていない」 というふうに ウェブ で非難されたそうなのですが──私は その非難を直接に読んでいないので、又聞きなのですが──、私は boast する気など更々持ちあわせていないつもりです。この非難は、「黒本」 を出版した頃 (1998年頃) に聞いたので、たぶん、「黒本」 の 「挑発的」 な文体に対する非難かもしれない。そうであれば、私も いくぶんか納得します──私自身が、今では あの文体を嫌っているので。ひとつ言い訳をすれば、当時、コッド 正規化を機械的に覚えて コッド 関係 モデル を知ったつもりでいた連中や チェン ER 法を モデル だと思い込んでいた連中に対して 「挑発的」 に論をぶつけるしか私には やりかた が思い浮かばなかった。「挑発的」 であろうとすれば、ああいう臭味の強い文体になるのでしょうね。そういう態度が、たぶん、dare to boast に近い態度として伝わったのでしょう。

 血気盛んな青年であれば、chiken-hearted と非難される事を侮辱と感じるのではないかしら。しかし、普段の生活の中で、「おくびょう者」 というような言いかたを他人に向かって言う事態など起こらないでしょう。生活を賭した判断のような重大事に直面しないと、「おくびょう者」 という言いかたもしないだろうし、且つ実際に 「おくびょう者」 なのかどうかもわからない。逆に言えば、「勇気」 を判断できるような機会は、普段の生活の中では存しないのではないかしら。愛の告白をためらっているというような類 (たぐい) の逡巡さを 「おくびょう」 というのは ご愛敬でしょう──好きな相手の前では ためらうほうが自然だと思う。

 私の事を言えば、自分が 「おくびょう者」 かどうかを試された機会は幾度か起こったのですが──生活が瀬戸際に立たされた事態は幾度か起こったのですが [ 会社を経営していれば、そういう事態は幾度か起こるものですが ]──、個人事なので ここでは述べないことにします。一言だけ綴れば、そういう時に、私を助けてくれたのが同僚・家族 [ 親族 ]・友人たち・(昔の出来事にも言及するのであれば、)恋人でした。そういう体験をすれば、自分独りの力 (ちから) など小聊たるものだと身を以て知る事になるし、自分独りで生きている訳じゃないという事も腹に入るので、dare to boast などという吝(しみ) ったれた、小ざかしい宣伝など嫌う。boast と感じるかどうかは、そもそも、相手との関係の中で相対的に起こる気持ちなので、相手が普通の状態でも私が落ち込んだ精神状態にあれば、相手の言うことが尊大に聞こえるし、相手が coward であるか boast であるかは、一時の印象だと思って忘れ去ればいいのではないかしら。

 
 (2012年 4月 8日)

 

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