Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション criticism のなかで、以下の文が私を惹きました。
Of all fatiguing, futile, empty trades, the
worst, I suppose, is writing about writing.
Hilaire Belloc (1870-1953) French-born British poet.
The Silence of the Sea
A great deal of contemporary criticism reads
to me like a man saying: 'Of course I do not
like green cheese: I am very fond of brown
sherry.'
G. K. Chesterton (1874-1936) British writer.
All I survey
People ask you for criticism, but they only
want praise.
W. Somerset Maugham (1874-1965) British novelist.
Of Human Bondage, Ch. 50
This is not a novel to be tossed aside lightly.
It should be thrown with great force.
Dorothy Parker (1893-1967) US writer.
Book review
Wit's End (R. E. Dremman)
I never read anything concerning my work, I
feel that criticism is a letter to the public
which the author, since it is not directed to
him, does not have to open and read.
Rainer Maria Rilke (1875-1926) Austrian poet.
Letters
Criticism の セクション には、58編もの引用文 (quotations) が記載されているのですが──他の セクション に較べて、引用文の数が多いのですが──私の興味をひいた文は上に記載した 5つの文だけでした。個人を対象にした批評 (criticism) を私が嫌っていることは先ず明記しておきます──勿論、匿名で個人攻撃する事は論外です。私は、仕事上、セミナー 講師を務めて来て、そして著作を出版して来て、批評される側に立たされている事も先ず記しておきます。
一番目の引用文は、まさに、私が批評らしきもの (批評を装って 自分の才知を披露したがる論 [ あげつらい ]) を嫌っている理由を代辯してくれる文です。私は批評そのものを嫌っている訳じゃないのですが、writing about writing には 「生理的な」 嫌悪感を覚えます。作家が自分を晒して思想を真摯に述べている状態に対して、その思想と真っ直ぐに向きあわないで、ちょこちょこと棒で突いて、気の利いた一言を投げつけようとしている様は下衆(げす)いし、知性の程が知れる。
そして、そういう批評は、たいがい、二番目の引用文が指摘しているように、嗜好を批評として装っているにすぎない事が多い。あるいは、相手の言説を聴かないで 自分の意見を固持して披露しているのすぎない事が多い──芥川竜之介は次の アフォリズム を綴っています (「侏儒の言葉」)。
百足 「ちっとは足でも歩いて見ろ。」
蝶 「ふん、ちっとは羽根でも飛んで見ろ。」
批評になりゃしない。
三番目の引用文では、Somerset Maugham 氏の慧眼に映った光景として、人々は批評を歓迎すると言いながらも、批評される側は賞められる事を期待しているだけだ、と。賞められたら、勿論、気持ちがいいけれど──たぶん、私は 「天の邪鬼」 なのだろうけれど──、私なら賛辞を聞き流す。30年以上に及んで一途に研鑽を積んで来た専門家が、果たして、専門外の人たちや専門家として立ったばかりの人たちから賞められて悦ぶのかしら。そういう賛辞などを聞き流すでしょう、きっと。作家が社交的な人物なら、賞められても 「どうも、ありがとう」 と一寸の謝辞を述べて通りすぎるでしょうね。
四番目の引用文は、文脈がわからないと意味がわからないでしょうね。Dorothy Parker 氏が どういう書物に対して批評したのかを私は知らないので、この引用文の意味は、ふたつの意味として考えられます。一つの意味としては、「ページ 数が膨大な割に」 中身が御粗末な書物に対する酷評 (怒りの表明) であると考える事ができるし、二つ目の意味として、(ページ 数が膨大であるという事ではなくて、) 中身を認めることができない──看過できない [ 大目に見ることのできない ] 危険な (あるいは、悪魔の魅惑を持った) 思想だと判断される──書物に対する批評であると想像できますね。たぶん、後 (あと) のほうの意味かもしれない。
そして、五番目の引用文は、作家の側からの発言ですが、「批評を読まない」 とのこと。勿論、そうじゃない作家も多いのでしょうが、私は、Rainer Maria Rilke 氏と同意見を抱いています。私は、今まで、拙著に対する批評 (および、私に対する ウェブ で公表されている批評) を読んで来なかった。というのは、Rainer Maria Rilke 氏が述べているように、criticism is a letter to the public which the author, since it is not directed to him, does not have to open and read と思っているので。
私は批評を気にしていながらも気にしていない振りをしているんじゃない。私は、過去 28年のあいだ、セミナー 講師を務めて来て、セミナー の都度、講師としての評価を下されて来ました──28年のあいだで膨大な数の人たちに rating を付けられて来ました。それらの批評 (セミナー 後のアンケート の中で コメント として綴られている意見) に対しては、講師の側からも言いたい事は いっぱいあるのですが、講師のほうから聴講生を批評する機会は いっさい与えられていない。そういう境遇に 28年も置かれていれば、批評されても批評しない事には慣れっこになっています (笑)。
相手の ぬきさしならぬ美点に苦しめられながらも、相手に立ち向かわなければならない時、そして その時に限って私は批評する事にしています [ 否応なしに批評する事を駆り立てられる ]──そういう相手は、当然ながら天才たちであって、私の批評などは紙鉄砲にすぎない。そして、私の批評は (はね返されて) そのまま私に反照してくる。そして、その反照を 自分の考えの中に取り込んで、自分の言説を拡充するようにして来ました。そうやって TM (モデル、T字形 ER法の拡張版) を作ってきました。作品を制作する人は、かならず、自分の中に、厳しい批評家を一人宿しているはずです──作品を制作している人自身が 自分の作品に対して一番に厳しい批評家でしょう。自分自身に対して自ら下す批評に応えられないで苦しんでいる (soul-searching というほうが正確かも) 当人には、他人 (ひと) が綴った批評に一喜一憂する余裕などないというのが本音でしょうね。
しかし、意図したものが技術的に実現できなかった時に──言い替えれば、企画と技術のあいだで納得できない乖離が生じた時に──、作家は、おそらく、精神的に危ない状態に陥っているでしょう。そういう状態の時には、たとえ、批評される事に慣れている作家でも、作品に対する酷評が耳に入れば堪えられないであろう事は私のような シロート でも想像できます。
(2012年 4月16日)