Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション critics のなかで、以下の文が私を惹きました。
Reviewers are usually people who would
have been poets, historians, biographers,...
if they could; they have tried their talents at
one or at the other, and have failed;
therefore they turn critics.
Sanuel Taylor Coleridge (1772-1834) British poet.
Lectures on Shakespeare and Milton, T
I make my pictures for people, not for critics.
Cecil B. de Mille (1881-1959) US film producer and
director.
Halliwell's Filmgoer's and Video Viewer's Companion
A good critic is one who narrates the
adventures of his mind among masterpieces.
Anatole France (Jacques Anatole Francois Tibault;
1844-1924) French writer.
The Literary Life, Preface
I sometimes think
His critical judgement is so exquisite
It leaves us nothing to admire except his opinion.
Christopher Fry (1907-2005) British dramatist.
The Dark is Light Enough, U
Insects sting, not from malice, but because
they want to live. It is the same with critics
-- they desire our blood, not our pain.
Friedrich Wilhelm Nietzsche (1844-1900) German
philosopher.
Miscellaneous Maxims and Reflections
A whipper-snapper of criticism who quoted
dead languages to hide his ignorance of life.
Herbert Beerbohm Tree (1853-1917) British actor and
theatre manager
Referring to A. B. Walkley
Beerbohm Tree (Hesketh Pearson)
A critic is a man who knows the way but
can't drive the car.
Kenneth Tynan (1927-80) British theatre critic.
New York Times Magazine, 9 Jan 1966
前回 引用した criticism の セクション には 58編もの引用文 (quotations) が記載されているのですが、それに対応するように、critics の セクション にも引用文の数は多く 21編が記載されています。
WWW や SNS が普及した現代では、ネット 上で批評が盛んになって、批評の数も膨大になっているのでしょうね──尤 (もっと) も、WWW や SNS が存しなかった頃には手に届く範囲になかった (潜在していた) 批評が fingertip で見る事ができるようになったというだけの事なのでしょうね。私が ホームページ や Twitter で綴っている文も明らかに批評文です──多くの人たちに聴いてほしい独り言です (笑)。
さて、一番目の引用文は、「作品を制作できない作家崩れが批評家になった」 という批評です。批評家が聴けば激怒しそうな文ですが、私は一理あると思っていますし、たぶん、批評家も そう言われて幾分か怯むのではないかしら。小林秀雄氏のような天才であれば、批評を作品にできるのですが、我々凡人の為す批評などは 「感想文」 にすぎないでしょうね──批評にもなっていないし、じぶんの嗜好を披露したにすぎない作文で終わっているのが大かたではないかしら。そう言えば、専門家と称される人たちが テレビ や雑誌の中で述べている 「(専門的) 意見」 も、たいがい、我々が酒の席上で ダベっている感想文と さほど変わりばえしない事を私は怪訝に感じています──我々庶民の知性の程度に降りてきて ああいう意見を述べているのか [ そうとは思えないなあ、、、庶民の常識のほうが逞しい所思であることが多い ]、それとも 専門家というのは専門技術には詳しいけれど、その技術を社会の中で使うとなれば、常識を超え得ないのかもしれないですね。だから、逆に言えば、我々も いっぱし批評家を気どることができる。WWW や SNS では、論文の査読のような ちゃんとした批評を見た事がない──尤も、つぶやきの手軽さが それらの世界の特徴なので、ちゃんとした批評を期待するほうが的外れでしょうね (笑)。
二番目の引用文を私は じぶんの心得えにしています。或る程度の量の文を綴って来た人であれば、じぶんの意見を批評家 (あるいは、読者) が気に入るような趣向に改変する事はできるでしょう。そういう文を私は ミーハー 向けの文 (曲学阿世の徒が綴った文) と見做(みな)して蔑視しています。エンジニア が技術を論ずるのであれば、じぶんの技術を 「世に問う」 という気位は持っていたい。
三番目の引用文は、批評文の神髄ではないかしら。天才的な作品にぶつかって翻弄されながらも、その体験を正確に報告するというのが批評文だと私は思っています。小林秀雄氏の批評文は、つねに そういう じぶんを晒した報告文です。そういう報告文には、「いささかの ケチ 臭いものも、吝 (しみ) ったれたものも、小 (こ) ざかしいものも、ない」 (小林秀雄) ストレート な文です。そういう文を難しい様に感じるなら、読み手のほうに なんらかの癖が凝り固まっているのでしょう。
すぐれた作品にぶつかって翻弄されながらも、その体験を正確に報告するのが批評であるならば、そういう批評文には自ずと批評家の個性が現れる。それを述べているのが四番目の引用文でしょうね。なんのことはない、生意気な顔をして作品を読まなければいいだけの事です──「コッド 関係 モデル は意味論が弱い」 というふうに (モデル 論を学習した事のない) 若い SE が断言していましたが、私は苦笑を禁じ得なかった。ま、そういう感想は感想でもいいのですが、そういう感想を抱いたのであれば──意味論を把握しているような事を言うのならば──、意味論を補強した モデル を示してくださいな、そうでなければ、一番目の引用文に還流しますョ (ふりだしに戻るだけですョ)。
五番目の引用文は、批評家の本性を撃ち抜いているかもしれない。この文は ニーチェ 氏の言ですが、彼ほどに世界中で色々と言われて来れば、彼の意見も確乎たる実感なのでしょうね。それにしても、insects は不気味な顔をしているわなあ。その不気味な顔を見ると私は身の毛が弥立 (よだ) つ。
六番目の引用文は、A whipper-snapper of criticism というふうに不定冠詞を使っているので、誰かを思い浮かべて綴られた文かもしれない (笑)──あるいは、whipper-snapper の集合に帰属する すべての メンバー に関して集合的性質として綴っているかもしれないのですが、whipper-snapper の 「性質」 を持つ批評家群から一人を代表元として選んで述べているのでしょうね。ちなみに、whipper-snapper の意味は次のとおりです [ COLLINS COBUILD English Dictionary ]。
If you refer to a young person as a whipper-snapper,
you disapprove of them because you think that they are
behaving more confidently and boldly than they should;
an informal, old-fashioned word.
私は そういう連中を数多く見て来て、うんざりしています──尤も、うんざりしている理由は、じぶんが若い頃にそうだった事を思い出させられるからかもしれない (苦笑)。批評には、じぶんを鋭く見せようとする背伸びが這入り込む危うさがあるので、その臭味が嫌悪感を催すのでしょうね。じぶんが鋭いと思われたい小ざかしさを披露してくれるが、「烏滸 (をこ) の高名は為 (せ) ぬに如かず」 (保元物語)。
七番目 (最後) の引用文は、一番目の引用文の意味と同値でしょうね。そういう連中には次のように言うだけでいいでしょう──「Don't talk it, take it. Show me」. あるいは、Don't be back-seat driver というふうに叱ってもいいかも (笑)。「でも、『傍目八目』 と云うではないか」、「当事者は自身の ヘマ を悔やんで苦しんで それでも戦っているのです、当事者が自身の ヘマ を承知できないのであれば、そもそも プロフェッショナル じゃない。プロフェッショナル じゃない ヤツ を こづいて一体何が愉しい? そんな批評は 『目くそ鼻くそを嗤う』 の類だ」。
(2012年 4月23日)