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Don't poke your nose into my business.

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション curiosity のなかで、以下の文が私を惹きました。

    'If everybody minded their own business,' the
    Duchess said in a hoarse growl,' the world
    would go round a deal faster it does.'

    Lewis Carrol (Charles Lutwidge Dodgson; 1832-98)
    British writer.
    Alice's Adventures in Wounderland, Ch. 6 T

 
    There is no such thing on earth as an
    uninteresting subject; the only thing that can
    exist is an uninterested person.

    G. K. Chesterton (1874-1936) British writer
    director.
    Heretics, Ch. 1

 
 いずれの引用文も私は読んだ時に大笑いしました。

 一番目の引用文は、言い替えれば、Don't poke your nose into my business と同じ意味でしょうね。いっぱし批評家を気どった小悧巧な御節介家が多いので うんざりします。モデル TM に関して、「キー がないのは実務的ではない」 と評した SE がいたとの事ですが──私は又聞きなので、正確な引用ではない事を注書きしておきますが──、TM は実地に使われて来ています [ T字形 ER法の代から使用年数を数えれば、20年ほど実地に使われて来ています ]。批評というのは、評した人の才識が顕れるので、自分の無知を露呈するのは御愛敬で落着するけれど、他人の足をひっぱる事は止 (よ) していただきたい。

 二番目の引用文は、「世の中には面白くないような物などない。ただ無関心な人がいるだけだ」 という意味でしょうね。現実の事態は あるがままです。その事態を我々が 「解釈」 する。「一水四見」(*) と云うように、「解釈」 には bias が這入る。それを意識していないと、自分の見かたが一番に正しいと思い込んでしまう──「自分の恋人が一番に美しい」 と思い込んだ逆上せと たいして違いはないでしょう。「自分の恋人が一番に美しい」 と思い込むのは勝手ですが、他の見かたを認めない独我的態度は uninterested と同類でしょうね。

 私は好奇心の強いほうです──「文学青年」 的性質が強いので、一瞥して通りすぎたほうがよいような風景でも凝視してしまう。そして、考え込んでしまう。考える事を仕事にしている人は実感していると思うのですが、考える事は ひどく疲れる [ 体力を消耗します ]。それでも、考える事の愉しみを味わったら、考える事を止められない。しかし、聖書には次の警句が綴られています。

    Be not curious in unnecessary matters: for
    more things are shewed unto thee than men
    understand

    Bible: Ecclesiasticus
    3-23

 範囲 (universe) を限ること、目的・前提を定立すること、推論 (論理) を厳守すること、その範囲の中で推測される事態の起こり得るすべての可能性を枚挙すること、それらの可能性の中から ソリューション を選ぶこと、その ソリューション を験証すること── curiosity は論を産む動機ですが、curiosity が因 (もと) の着想は、これらの 「論理」 規約に遵 (したが) って、確実な論を構成できるのであって、そうでなければ、「下手の考え休むに似たり」 に同然でしょうね。一つの論として結実しない curiosity は単なる刺戟にすぎない。あるいは、論として構成する力量がないならば──あるいは、論を構成する骨折りを厭うて、しかも己れの才を披露しようという吝嗇 (けち) 臭い下心を抱いていれば──、他人の仕事に鼻を突っ込んで一寸の批評をしたくもなるのでしょうね。「高慢さが芸になっていない」 「独断的だ」、ああ わかったよ、私に興味を抱いてくれるのは嬉しいが、いっそう 「あなたが嫌いだ」 と言ってくれたほうがわかりやすい (笑)。

 
(*) 一境四心、一處四見ともいう。同一の對象も、これを見る者が異なれば異なったものとして見えること、恰も同一の水を餓鬼は濃血と見、魚は住家と見、天の有情は種々の寶で荘厳した地と見、人は水と見る如しという喩。(「佛教学辞典」、田屋頼俊・横超慧日・舟橋一哉 編集、法藏館)

 
 (2012年 5月 1日)

 

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