Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション delusion のなかで、以下の文が私を惹きました。
Take care, your worship, those things over
there are not giants but windmills.
Miguel de Cervantes (1547-1616) Spanish novelist.
Don Quixote, Pt. T, Ch. 8
Many people have delusions of grandeur but
you're deluded by trivaility.
Eugene Ionesco (1912- ) French dramatist.
Exit the King
Delusion (=a false belief or opinion; a belief in something that has no existence in fact) の日本語訳は、「惑わし、欺瞞、錯覚、妄想、幻想」。類語に illusion がありますが、delusion は 「心理的混乱 (disordered state of mind)」 に因る 「真偽の判断ができない状態」 を示し、illusion は そういう心的状態 (mental derangemnt) を示唆する事がほとんどなくて、視覚などが本当らしく見える物を真実と見做 (みな) す状態 (ascription of truth or reality to what only seems to be true or real, especially t the eyes) です [ Merriam Webster's Dictionary of Synonyms ]。
一番目の引用文は、「ドン・キホーテ」 の有名な セリフ です。或る対象に対して錯覚を抱いた人は、錯覚とは思っていないので、対象に対して真面 (まとも) に向かえば向かうほど、その真摯な様を観ている他人には滑稽 (喜劇) に見える。ちなみに、外界の対象をその本来の様相と違ったものに知覚する事を 「錯覚」 と云い、対象の存しない状態を 「幻覚」 と云いますが、いずれにしても、精神的錯乱である事には変わりない。私は、時々、TM が delusion の産物ではないかと疑う事がある──言い替えれば、私は ドン・キホーテ ではないか、と。私は、一体、何を錯覚したのか、、、──モデルを文学的に観たのかもしれない。それが錯覚でない事を確認するために、私は、数学基礎論を学習して、TM を (数学基礎論の) モデル 論の視点で検証して来ました。私が数学に傾倒した様に云われていますが、そうせざるを得ない (抜きさしならぬ) 理由が存していたのです。モデル 論の 「理論」 から観て、TM には、幾つか 「関数」 から逸脱した規則が存する事がわかった──ただし、「論理」 から逸脱している訳ではない。そういう私の眼から観れば、事業分析の領域で示されている様々な モデル は──他人が実感で述べている事を私は更々否定するつもりはないのですが、彼等 SE たちの実感が象嵌した モデル は── SE たちが 「現実」 に対して抱いた delusion にさえ見える。
二番目の引用文で、delusions of grandeur は 「誇大妄想」 という事。一人の SE が実感で描いた図を モデル と称する事は delusion of grandeur にすぎない──この事については、私の Twitter (@satou_masami) で論じているので、本 エッセー では、もう言及しないで置きます。他人 (ひと) の実感を否定するつもりは私には更々ないけれど [ 他人の実感を否定できる訳がない ]、実感が delusion を──「視点」 という様な高級なものじゃない──生む危険性を免れないのであれば、delusion を起こさぬ技術 (「論理」) を使う事こそ エンジニア の職責でしょう。逆に、自身の実感を真 (true あるいは real) として モデル を制作する眼から見れば、TMD (TM 図) は 「騙し絵 (an optical illusion)」 として見えるかもしれないw。私は他人のやりかたを非難して TM が一番に正しいと主張するような自惚れを持ってはいない。先ほど綴ったように、私は、TM が delusion の産物なのではないかと常に強迫観念を持っていました。今もその疑いが晴れた訳じゃない。だから、私は モデル 論 (数学基礎論) の学習を続けるしかない。
(2012年 6月23日)