Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション democracy のなかで、以下の文が私を惹きました。
Democracy means govenment by discussion
but it is only effective if you can stop people
talking.
Clement Attlee (1883-1967) British stateman and
Labour prime minister.
Anatomy of Britain, (Anthony Sampson)
One man shall one vote.
John Cartwright (1740-1824) British writer.
People's Barrier Against Undue Influence
Democracy means government by the
uneducated, while aristocracy means
government by the badly educated.
G. K. Chesterton (1874-1936) British writer.
New York Times, 1 Feb 1931
No man is good enough to govern another
man without that other's consent.
Abraham Lincoln (1809-65) US stateman.
Speech, 1854
...that government of the people, by the
people, and for the people, shall not perish
from the earth.
Abraham Lincon
Speech, 19 Nov 1863, dedicating the national cemetery on the
site of the Battle of Gettesburg
Democracy means simply the bludgeoning of
the people by the people for the people.
Oscar Wilde (1854-1900) Irish-born British dramatist.
The soul of Man under Socialism
私は、学校教育で 「民主主義 (democracy)」 という概念を聞いて今に至るまで、「民主主義」 を実感した事は (遺憾ながら?) 一度もない──その概念が、もし、引用文の二番目が云うように、「一人の個人に対して一つの投票権が与えられている」 状態であるならば、確かに、そういう状態を幾度も体験して来ましたし、その制度を賛同するのですが、「民主主義」 の原義である 「demos (民衆) + kratus (支配)」 という状態と多数決制度とのあいだには、融和できない性質を感じています [ 私がつねに少数派であった事の恨みかもしれないのですが (笑) ]。
戦後民主主義が他国から押しつけられた思想であるとか、天皇制は旧態であるなどという、世間で度々聞き及ぶ意見を この 小 エッセー で云々するつもりはないのですが、民主主義が自由主義といっしょになって一つの組として当然の前提のように語られる事に対して私は奇妙な感を覚えます。というのは、「民主主義」 の原義である (ギリシア で実施されていた) demoskratia は── アテネ で実施されていた直接民主主義は──議会・政党の存しない、三権分立も存しなかった体制でしたし、ソクラテス [ 私 (佐藤正美) の大好きな哲人! ] を死刑にしたので、プラトン は それを 「衆愚政治」 として指弾しました。
我々が識っている民主主義制度は、米国に於いて、19世紀になって民主党ができて、第一次世界大戦の時に (ウィルソン 大統領の時に) 対 ドイツ 戦争の スローガン [ 大義名分? ] として使われた頃に云われるようになったのであって、それ以前は (19世紀の ヨーロッパ では) 「民主主義」 は社会主義の シンボル であって、社会民主主義を謳っていました [ この説明は、「コンサイス 20世紀思想事典」 (三省堂) から借用しています ]。そして、レーニン の主導する革命 ロシア や ヒットラー の独裁に対して、西欧社会は自由主義社会の意味で民主主義国家を自称するに云った様です。だから、我々の識っている 「民主主義」
概念は、最近になって鋳造された概念です。
日本には 「民主主義」 が存するのかどうかという難しい論を この エッセー で考えてみようとは更々思っていないのですが、「民主主義」 という概念の内包を考えた時に──ここで、引用文の一番目・三番目を再読してみて下さい──、日本が 「間接民主主義」 を導入しているという事には私は少なからず違和感を覚えますし、永田町・霞ヶ関に棲息する政治家・国家公務員が リーダー (指導者、代表者) だと云う事には笑止を禁じ得ない [ 2011年 3月11日の大震災で国民はそれをはっきりと知ったでしょう ]。国民の政治不信という事が云われて久しいのですが、3.11 震災に対する政治家の対応の拙さを目のあたりにして不信感は いっそう強まったのではないかしら。マスコミ のひどさは、もう論ずるのも忌まわしい感を覚えます──震災報道に関して、大手の新聞社が 「事実」 の報道を意図的に回避した舞台 ウラ を The Internet と SNS は訐 (あば) きました。
大手の新聞社が意図的に報道しなかった情報を The Internet や SNS が訐いたという事実があるいっぽうで、The Internet や SNS は 「直接民主主義」 の弊害も内包している危険性を忘れてはいけないでしょうね── Oscar Wilde 氏が述べている様に、Democracy means simply the bludgeoning of the people by the people for the people という危険性を孕んでいる [ bludgeon は 「棍棒で殴る」 「強制する、脅す (coerce)」 という意味です ]。
しかし、「一人の個人に対して一つの投票権 (発言権) を与える」 という制度を私は絶対に擁護します。そして、多数決のうえで抹殺されそうになった少数派の意見に すばやく耳を傾ける事は、プロジェクト・リーダ としての絶対の資質でしょう──(引用文の三番目が云うように、) No man is good enough to govern another man without that other's consent. 少数派の意見は、多数派が軽視したことがらに対する忠言となる事が多い。
或る人が或る会議に出席して或る事案に賛成したのですが、会議の後で、その人曰く、「会議では事案に賛成したが、正直に言えば、私は反対したかった。でも、あの場の雰囲気では、賛成せざるを得なかった」 と。それを聞いて、私は唖然としました。こういう社会風土で実施される多数決制度は、「民主主義」 の形態ではない。あるいは、事前に根回しをやって 「組織票」 を固める事を政治的一計と見做 (みな) すならば、私は それに反対をしないけれど、少なくとも、投票権を持つ個人が自身の意志を表さない様な投票は、「個人たる尊厳」 を捨てた (棄てた?) 状態でしょう。二大政党政治は、時に lesser evil を選ぶ様な事態に陥る事があるので、意図的な棄権を私は反対しないけれど──私自身も国政選挙で投票所で白票を投じた事が幾度かありますが──、「一人の個人に対して一つの投票権 (発言権) を与える」 という制度は、(政治的多数決制度というよりも、) 「個人の尊厳」 に係わる論点だと私は思っています。社会の中で敬意を払われている (あるいは、敬意を払われるべき) 「個人 (個性)」 という意識を、我々は──「個人」 の人権を民衆が蜂起して戦い獲ったという歴史を持っていない我々日本人は──、果たして強く持っているかしら、、、。
(2012年 7月 1日)