Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション devil のなかで、以下の文が私を惹きました。
The devil is not so black as he is painted.
Proverb
Sometimes
The Devil is a gentleman.
Percy Bysshe Shelley (1792-1822) British poet.
Peter Bell the Third
The Devil という西洋的概念は、日本で生まれて日本で育った私には実感できない概念です── devil という概念が、なんとなく 「悪い」 意味を指している事くらいならわかるのですが、「神」 に敵対する supreme spirit of evil (= Satan) という意味となれば、その観念が伝える種々様々な聯想を私は実感する事ができない。従って、本 エッセー では、devil の意味を a mischievously energetic, clever, or self-willed person くらいに考えて私の随想を綴ります。
「善人」 とか 「悪人」 という判断は、条件次第で揺らぐ概念でしょうね、一人の人間の性質の中には、「善人」 も 「悪人」 も共存しているのが実態でしょう。「私は 『善人』 だ」 と自分で公言すれば 「偽善者」 になるだろうし、反対に 「私は 『悪人』 だ」 と公言すれば、気を衒った 「偽悪者」 の臭味が付く。「文学青年」 は [ 私がそう (文学青年) ですが ]、たいがい、「偽悪者」 を粧う様です (笑)──既成の秩序に対して反抗する時、一種の浪漫的 hiroism を感じて、自分自身の意気に酔うのでしょう。「偽善者」 も 「偽悪者」 も devil である事においては違いがないでしょうね。
二番目の引用文の意味を (文脈から抜きとられた一文なので) 私は掴みかねています──「The Devil は紳士を粧っている事が時々ある」 という意味なのか、「The Devil でも紳士となる事が時々ある」 という意味なのか、、、。いずれにしても、The Devil である事が大前提になっていますね。「性善説」 だの 「性悪説」 だのという素朴な (naive な?) 二元論などを私は子どもじみていると思っていて本気で論ずるつもりは更々ない。生まれた時の遺伝子で雌雄の判断と同じ様に 「善人」 「悪人」 が判断できるものなら 「善悪」 も生物学的性質になるでしょう (笑)。ただ、私は、「道徳的に──学問上の事はここでは対象にしないで置きますが──正しい事しか言わない」 人物を胡散 (うさん) 臭いと感じて毛嫌いしています──そういう人物は、立派だが立派すぎて困るのです。柄 (キャラ) になっていない・杓子定木の道徳家が多くて困るのです。正しい事を羞恥も感じないで朗々と語る ヤツ に対しては、「あんたに今更そんな事を言われなくたってわかっている」 と社会人 (a member of society) なら反撥を覚えるでしょう。例えば、私が正しいと判断して実行したけれど思うように結実しないので落ち込んでいるにもかかわらず、「そういう事になったのは、オマエ の判断が間違っていたからだ」 とか 「正しくあろうという意志が弱いからだ」 などと云われたら、反撥したくなるのは自然ではないか──「謙虚になって、他人 (ひと) の言う事を聴け」、冗談じゃない、Who in the devil do you think you are! You paint the devil blacker than he is. Give the devil his due. 他人 (ひと) の気持ちを忖度できぬ石部金吉こそ、The Devil ではないか。
キリスト は devil の試みをすべて退けました (「荒野の修業」)。私なら、ああいう試みに負けたかもしれない (I may have sold my soul to the devil)。そして、devil の試みをすべて退けた キリスト は次の様に言っています──「人を裁くな」 と (Matthew 7-1)。
Do not judge others, so that God will not judge you,
for God will judge you in the same way you judge others,
and he will apply to you the same rules you apply to others.
God という観念がわからない私には文意がわからない。ただ、信仰において 「偽善者」 に陥る事を戒めている事だけは私でもわかる。信仰に情熱を注いで believe in しても──正しいという価値を認めて手本にしても──、devil となる危険性が高い事を戒めているのでしょうね。聖書の中で私がとても美しいと思っている文を次に引用します (John 8-7)、
As they stood there asking him questions, he straightened
up and said to them, "Whichever one of you has committed
no sin may throw the first stone at her."
Sin という概念が決め手です。The teachers of the Law and the Pharisees が姦通をした女を連れて来て、キリスト に問うた [ 試した、と言ったほうがいいかも ]──「こういう女は石で打ち殺せと、モーセ は律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」 と。キリスト は屈み込んで、指で地面に書きはじめた──屈んでいる キリスト を、devils が立って見下ろしている気配を想像してみて下さい。キリスト に諭されて、devils でも正しく判断できたのかもしれない、というのは次の文が続いて綴られています (John 8-9)。
When they heard this, they all left, one by one, the older
ones first, Jesus was left alone, with the woman still
standing there.
簡潔で vivid な文ですね [ 音読してみて下さい ]。律法に関する 「解釈」 というものは、一番わかりやすい 「(正義の) 解釈」 を選ぶのかもしれない、そしてわかりやすい 「正義 (『解釈』)」 は振り子の様に振れた。杓子定木というのは、その程度のものではないか。
(2012年 8月16日)