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A good salad may be the prologue to a bad supper. (Thomas Fuller)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション disappointment のなかで、以下の文が私を惹きました。

    Unhappiness is best defined as the difference
    between our talents and our expectations.

    Deward de Bono (1933- ) British physician and writer.
    The Observer, 'Sayings of the Week', 12 June 1977

 
    Look in my face; my name is Might-have-been.
    I am also called No-more, Too-late, Farewell.

    Dante Gabriel Rossetti (1828-82) British painter and poet.
    The House of Life, 'A Superscription'

 
    He said that he was too old to cry, but it
    hurt too much to laugh.

    Adlai Stevenson (1900-65) US stateman.
    Said after losing an election, quoting a story told by Abraham
    Lincoln
    Speech, 5 Nov 1952

 
 天才を除いて、私くらいの程度の凡人は、還暦近くにもなれば、引用文の一番目に述べられている定義を痛感しているのではないかしら──少なくとも、私は身の程知らずだったという悔恨を覚える程に納得しています。200年も生きられるのであれば、色々な事にわき目を振って ゆっくりと仕事をできるかもしれないのですが、人生は短い──人生が短いと実感した時には、老年になってしまっている。「60歳は、まだ若い」 というのは、初老を迎えた人々が口にしながら、たぶん、誰一人として内心では納得していないのではないかしら──そういう事を口にする事自体が、老いた自身に対する鼓舞だとか慰めだとかを吐露している様に私には思われます。自分が成り得ると期待した状態には成っていないという現実は、もし勤労の末であれば、期待が高すぎたか、あるいは力量が及ばなかったかのいずれかでしょう。いずれであれ、自身に対する幻想に惑わされた果ての状態でしょうね。若い頃に大志を抱くのは宜しい、しかし (引用文の三番目の云う様に) 目的に向かう軌道を還暦近くになっても修正できていなかった事は泣くに泣けない。

 私の今の状態は、たぶん、引用文の二番目の云う状態なのかもしれない。老いても若い頃を振り返って今でも自らの才を過信している様な 「老害」 というのではない、私は寧ろ自らの才の無さを嘆いています。しかし、凡才は凡才なりに──たとえ、私の仕事のやりかたが世間的規程にかなわずとはいえ──自らの (社会の中での) 座標を測っています。そして、私のやって来た仕事に対して 「No-more, Too-late, Farewell」 と野次を飛ばされたら、(私の様な凡暗でも) 抗戦するでしょう。自説を世に問うのであれば、世間で話題にならないという事は不幸でしょう。そして、もう話題にされなくなるという事は侮辱でしょう──幸いか不幸か、私 (TM) は 「独断的」 だと非難されているそうです [ 話題にはなって来た様です ]。しかし、私は、ただただ、独断から逃れようとして仕事をして来たつもりです。「独断的な (個性的な?)」 技術というのは、文字通りに洒落にすぎない。そして、自分を愛して自分を憎んで自らの才に対して失望した凡才であるがゆえに、TM は並外れた技術にはならなかった。自分の凡才を失望しても、TM の技術が奇抜なものにならなかった事を私は エンジニア として悦ぶべきかもしれない。

 
 (2012年 9月23日)

 

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