Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション dismissal のなかで、以下の文が私を惹きました。
It is not fit that you should sit here any
longer!...you shall now give place to better
men.
Oliver Cromwell (1599-1658) English solider and
statemam.
Speech to the Rump Parliament, 22 Jan 1655
We Don't Want To Lose You But We Think
You Ought To Go.
Paul Alfred Rubens (1875-1917) British dramatist and
songwriter.
Title of song
引用文の二番目は、(私は、この歌詞を全然識らないので、意味を把握し難いのですが、) たぶん、相手の新たな旅立ちを期待して [ 将来を嘱望して ] 言ったのではないかしら。
Dismiss の語意は、基本的に give a permission to go の事なのですが、employment に関して用いると discharge from office, service or employment (解雇する) という意味です。英英辞典は次の様に説明しています (COLLINS COBUILD)。
When an employer dismisses an employee, the employer tells
the employee that they are no longer needed to do the job
that they have been doing.
相手を首にする時に、社交上、「君 (きみ) はこんな所にいる様な人物ではない、君を活かす事のできる ふさわしい天地へ歩み給え」 などと巧言を吐 (つ) く事もあるので、「君を失うのは辛いが、、、」 と言われても dismiss の真意は、「価値 (need) がない」 という判断を下されたという事でしょうね。そう判断されても落胆する事もない、新たな workplace を探せばいい [ That one will not another will (棄てる神あれば助ける神あり) ]。私は職を探していて、「この仕事には、あなたは overqualified です」 というふうに門前払いされた事を幾度か体験していますが、「そうですか (Do you think so? [ You don't have an eye for discovering the talented.] )」 というくらいにしか思わなかった。私は (文系の) 大学院を修了して一年間を無職状態にあって、その後に 20社ほどに求職したけれど、すべて門前払いされました──30数年前の話です。当時の社会では、文系の大学院を出ても 「使い物」 にならないと謂われていて、しかも、私は 「新卒」 じゃなかった [ 前述しましたが、大学院を修了して一年間を無職状態にいました ]──dismiss される以前の窮地でした。私は、元来、自身の不為 (ふため) な事を考えない呑気さがあるのでしょう、そういう状態にあっても惨めだと感じた事は毛頭なかった。30才くらいまでに適所を探せばいいと呑気に考えていました。そして、30才までに私は転社を 4回しています。
37才で独立開業しました。組織の中で仕事をしていれば、(組織に対する) 貢献度を (或る程度) 測る事ができるのですが、私の様に一人で仕事をしていると、自分の力を測り難い──私が ユーザ 企業に対して どのくらい貢献できたかが私の価値を判断する目安になるのですが、一つの ユーザ 企業の中でも politicking があって、私に対して良い評価をする (賛同する) 人たちもいれば、私を毛嫌いする (非難する) 人たちもいるので、私の貢献度を測るのは中々難しい。私が手伝った事業数値の改善が そのまま評価にはならない──というのは、たとえ、事業数値を改善しても、「彼奴 (あいつ) が入ったがために組織体制が乱れた」 と非難する事もできるし [ 口実なら、まあなんとでも言えば言えるものでしょう ]、「彼奴を雇って あんな事を言わせているのは一体 (社内の) 誰だ」 というふうに言われているのを耳にした事もあります。特に、事業分析に係わる仕事では、社内政治の側杖を喰らう事が多い (苦笑)。
私の様に 30年近くも一つの [ 同じ ] 仕事 (モデル 技術) に掛かり合うと、時々、引用文の一番目が云う所懐を抱 (いだ) く事があります──特に、着想が浮かんでも具体的な技術として実現できない状態に陥って気持ちが落ち込んでいる時などには、そうです。「もう、舞台を降りたほうがいいのかもしれない」 と思った事が幾度かありました。それでも、新たな着想が今なお浮かぶし、それを技術として具現する才知も今以 (もっ) て衰えてはいないので、「いける (not bad、あるいは a little bit of all right)」 という自信 (自惚れ?) を喪ってはいない。私の様に自尊心の強い人物は、他人 (ひと) から引導を下付されるという事は屈辱以外なにものでもない。そうであるが故に寧ろ、自らの力の衰退を感じたならば、私は潔く舞台を降りるつもりです。そして、今から言う事は御節介になるのでしょうが、若い世代の意気 [ 社会に対する憤怒、野望 ] の乏しさを私は憂い嘆いています。私の世代 (および、もう一つ上の世代) は、いわゆる 「学生運動」 に挫折して、挫折の後に 「優しさ」 をもとめて──学生の同棲形態が多くなった時代ですが──、キリスト の様な顔立ちの青年たちが多くなったと云われたのですが、社会に対する意識は それでも強かった。次の文を読んだ時に、私は嗤えなかった。
There comes a time in every man's life when
he must make way for an older man.
Reginald Maudling (1917-77) British politician.
Remark made on being replaced in the shadow cabinet by John
Davies, his elder by four years
The Guardian, 20 Nov 1976
現代の60才代は昔に較べて若いと謂っても、40才代に較べたら年寄りである事に間違いはないし、今更ながら冒険をする年齢でもないでしょう。冒険よりも経験を重視する様な社会というのは (安定していても) 沈滞するのではないかしら。こういう大きな論点は、私のできる事の範囲を超えているので、いくら論じても どうしようもないのですが、少なくとも、私は、私の力 (才知) に関して、植物 (自然) を観察する様に冷静に観ていたい。枯焦の花を観賞する人はいないでしょうし、私の才知がこれからもっと伸びるという事はありえないので、せいぜい枯れるのを できる限りに延期する様に心掛けています。現代の 60才が昔の 60才に較べて若いとは謂っても、私の才知が 40才頃から 60才までのあいだに伸びた様には もう伸びないだろうし、衰えゆく今の状態にあって、余所見 (よそみ) している余裕は、もうない。
(2012年10月16日)