Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション editors のなかで、以下の文が私を惹きました。
An editor is one who separate the wheat
from the chaff and prints the chaff.
Adlai Stevenson (1900-65) US stateman.
The Stevenson Wit
この引用文を読んで私は大笑いしました──大笑いした理由は、勿論、その wit の絶妙さ (ウラ をかいた一撃) に対してです。Editor を (書物・新聞などの) 編集者・論説委員という職に限らないで、なにがしかの文 [ 記録文・報告文・感想文など ] を編集する人というふうに読めば、我々のほとんどが中 (あた) るのではないかしら。
「事実を述べる」 とは云っても──あるいは、「毒舌を言う」 だなどと云っても──相手に対して無礼をはたらかない程度の媚びが必ずある──「事実」そのものを正確に述べるよりも、「事実」を観ていると思っている読者の満足感をくすぐるための媚びが必ずある。文が一見聡明な意匠を纏っていても、文を読んでもらうための色目が必ずある。というのは、「事実」 そのものには重大さの格付けなど存しないのであって、それを格付けするのは我々であって、無色な 「事実」 は、たとえば、モーツァルト が夭折した事も 私が去世する事も、5W1H のままに伝えれば、「誰それが 某年某月某日に どこそこで しかじかの理由で 斯様に亡くなった」 という一文で足りる──そんな扱いは、モーツァルト に対して失礼でしょう。モーツァルト に対しては 「天才」 という冠を捧げたい──「天才の余りにも早すぎる去世、その才を神が愛でて召されたか」 と、journalese 風に綴れば、そんな見出しになるかw。しかし、我々は──音楽の専門家でない我々は──モーツァルト が 「天才」 であった事を いかにして知っているのか、、、モーツァルト が遺した スコア (総譜) をすべて読んでいる訳じゃないし、それぞれの楽器の (当時の) 性能を知っている訳でもないので、音楽評論家が モーツァルト を 「天才」 と評した事をそのまま信じている──尤も、「普通の」 人たちにできない事を、しかも、音の美しい作品として創ったという一点を以てしても 「天才」 と云っていいのでしょうが、そうであれば、作曲家はすべて天才でしょうし、音楽に限らず、凡 (およ) そ、「普通の」 人たちが尽力してもできそうもない事をやっている専門家と云われる人たちは全員が天才になるでしょう。こういう事を云えば、私は 「(屁理屈を好む) 天の邪鬼」 とみなされて、他人 (ひと) との会話ができなくなってしまうので、そう、私も通説を尊重して モーツァルト には 「天才」 という形容詞を ちゃんと用いますョ──ちなみに、私は、モーツァルト の音楽を大好きです。
本 ホームページ の 「思想の花びら」 で、森鴎外の文を引用しました。
要するに三面記事は どこまでも個人の猿知恵を出すことを避けて、
あくまで典型的に書かなくてはならない。女は皆 「美人」 である。
恋愛は皆 「痴情」 である。何事につけても公憤を発して けしからん
よばわりをしなくはならない。クリスト は裁判をするなと言ったが、
三面記事は何から何まで裁判をしなくてはならない。どんな遺伝を
受けて、どんな境界に身を置いた個人をつかまえて来ても、それを
指を屈するほどの数の型にはめて裁判をする。そこが春秋の春秋
たるゆえんかもしれない。
separate the wheat from the chaff and prints the chaff を糾弾した文ですね。しかし、三面記事に限らない事でしょう、一面記事であっても、大手の新聞社の報道が いかがわしい事を我々は 3.11震災で はっきりと目にしたでしょう [ 当時、東京電力社が真夜中に開いた 「記者会見」 を Ustream で観ていた人たちは、大手新聞社の記者たちが意図的とも思われる愚問を列ねていた事を目の当たりに見たでしょう、フリーランス の記者たちの厳しい質問を遮る様にして ]。
「文」 という文字は 「あや」 とも読みますし、「あやなし (文なし)」 は 「筋が立たない、わけがわからない、かいがない、むなしい」 という意味です。言語活動とは、「意味」 を調 (ととの) える行為のはずです。すなわち、「その意も事も言も相称ふ」(本居宣長) 状態を実現する様に文 (あや) を為すはずです。そういう行為が文体として現れる。しかし、事態を凝視しないで、文を飾る事もできる。だから、小林秀雄氏 (文芸批評家) は次の警句を綴っています。
現実といふものは、それが内的なものであれ、外的なものであれ、
人間の言葉というようなものと比べたら、凡そ比較を絶して豊富
且つ微妙なものだ。そういう言語に絶する現実を前にして、言葉
というものの貧弱さを痛感するからこそ、そこに文体というもの
についていろいろと工夫せざるを得ないのである。工夫せざるを
得ないのであって、要もないのにわざわざ工夫するのではない。
「真実らしき」 ものを、そして 「真実らしき」 ものから導きだされる訓戒を既に知っていると思っている読者の満足感をくすぐる様に意匠を凝らして媚びる──そういう文体が 如何様な文体なのかを知りたければ、新聞紙の社説を読んでみればいい。なお、拙著で云えば、「黒本」 以前の著作には──「黒本」 をふくめて──SEたちに対する挑戦的な・皮肉的な諷刺が込められています (当時、そういう意図を持って執筆しています)。だから、私は、今になって、それらを読むに堪えない。そういう諷刺は、媚びの一種と云っていいでしょう。すなわち、技術の正当性を証明する前に、憤怒を持って技術を世間に投げつけた、そういう著作です──感情は変わるけれど、文は遺ったままになるので、読み返せば、ばつの悪さしか感じない、、、。実際、「黒本」 では、証明が疎かです。45歳の時に執筆したのだから 「若気の至り」 という言い訳もできないでしょうね (苦笑)。自分の阿房さを嘆くしかない。
(2013年 1月 8日)