Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション education のなかで、以下の文が私を惹きました。
What we must look for here is, first,
religious and moral principles; secondly,
gentlemanly conduct; thirdly, intellectual
ability.
Thomas Arnold (1795-1842) British educator.
Address to the scholars at Rugby
They go forth into it with well-developed
bodies, fairly developed minds, and
undeveloped hearts.
E. M. Forster (1879-1970) British novelist.
Referring to public schoolboys going into the world
Abinger Harvest, 'Notes on the English Character'
It is no matter what you teach them first,
any more than what leg you shall put into
breeches first.
Samuel Johnson (1709-84) British lexicographer.
Life of Johnson (J. Boswell), Vol. T
Anyone who has been to an English public
school will always feel comparatively at home
in prison.
Evelyn Waugh (1903-66) British novelist.
Decline and Fall Pt. V, Ch. 4
Education の セクション には、65篇に及ぶ数多い quotations が記載されています──語るべき事が多いのでしょうね。本 エッセー のささやかな文量で教育論を語るつもりは私には更々ないし、そもそも、「教育」 と云っても、幼児教育から始まって、小学校から大学・大学院までの学校教育や、企業に就職してからの社会人教育まで範囲が広いので、一律に語る事はできないでしょう。本 エッセー では、私がうけた教育の中で思い出として遺っている記憶を辿って、「教育」 に対する私の考えかたを確認してみます。
自分の 「教育」 を振り返ってみれば──学生時代に限ってみれば──、私にとって、小学生の頃に育った田舎の風景と高校生の頃に耽読した文学書は、その後の人生において、私の感性に対して極めて強い影響を与えた様です。そして、中学生の頃を除いて、私は 「学校教育」 を真面 (まとも) に修めていない (苦笑)──高校では欠席日数が学年で最多に近いほうで進級できたのが奇蹟だと思う、高校・大学を正式に卒業できなかったのではないかという夢を今でも偶 (たま) に見る事がある [ それぞれの卒業証書は正式にもらっていますがw ]。高校に入ってからは学習意欲も失せて──県で トップクラス の進学校でしたが──欠席が多かったけれど、遊び呆けていた訳ではなくて、家で 一日中 文学書を読んでいました。その読書癖は、大学生になっても続いていました。大学は第一志望だった文学部を落ちて、商学部に入学したのですが、文学青年が商学に興味を持つ筈もなかった。当時は学生運動も末期の状態で、大学が ロックアウト される事が多くて、私は下宿でひたすら文学書・哲学書を読んでいました。私は、「人生」 を文学書から学んだと云ってもいいかもしれない、良い意味でも悪い意味でも。私が優等生を ひどく嫌う事や個性を著しく尊重する事は、文学書を読んだが故でしょうね。そして、そういう性質になった事を、今になって、ちと悔やんでもいる。
引用文の二番目・四番目は、作家ならではの感想ですが、私も──以上に述べた様に、「学校教育」 を真面に修めなかった私も──同感できる。
個性は他人 (ひと) に指導されて果たして伸びるものであろうか、私は疑わしいと思う。「教育」 とは、そもそも、of myself, by myself and for myself (自分で自分を充実する) という学習ではないか。現代の教育論が如何なる論を立てているかを私は識らないのですが、「教育」 について、荻生徂徠の 「思ッテ得ル」 覚悟 (「格物到知」 という意識)(*) を──「学ンデ知ル」 という事ではない点に注意されたい──私は最良の学習法だと思っています。江戸時代の学問法は、現代科学に較べたら、「科学的」 ではないと評するのは簡単な事だけれど、「生に竢 (ま) つ」 という徂徠の態度は 「教育」 の根柢なる態度だと私は思っています──己れを空 (むな) しくした (私智ヲ去ル) が故に顕れる個性がある。現代人は、おそらく、その態度に対して逆に 「独断的」 な臭いを感じるかもしれないけれど、偏っている [ 機械的な手続きで 「現実」 をぶった切ろうとしている ] のはいずれのほうか、、、なお、私は 「ゲーデル の不完全性定理」 を読んだ時にも、ゲーデル 氏の論法の中に徂徠に近い性質を感じたので、徂徠のやりかたが古いという訳じゃないでしょうね。徂徠は、「個人の知を前提にして憶測で論を作る」 ことを 「格物窮理」 として非難しました──「格物窮理」 は単なる 「我流」 の事なのですが、「我流」 の事を社交辞令で 「独創的」 と云うかもしれないw。しかし、そんなものは個性じゃない。
厳正な意味で 「独創的」 だった ゲーデル 氏の証明法は、通説通念にしてやられるのは学者じゃないという知性が生んだのでしょうね。ゲーデル 氏は──そして、徂徠は──自分の嗜好 [ 視点 ] を排除しなかったけれど (自分の知見に固守したという事ではない点に注意されたい)、対象そのものが顕す性質を辛抱強く観て、その構成条件を明らかにするために 「論理」 の公共性を違反しなかった。そして、そういう感性・知性を養うのが 「教育」 でしょうね。
引用文の一番目で云っている religious and moral principles という概念を私は必ずしも納得できないのですが、それを もし 感性とか人徳 (character) というふうに考えれば、賛同します。どうかすると、社会では、頭の良い人たち [ 学歴の高い人たち ] が、そうでない人たちに較べて、非常識である事が しばしば ある──学問は事態の構成条件を明らかにすれば事足りるので、生きかたには関与しないけれど、もし 学問の研究法を世界観の中核だと思い込む様になれば、知に酔っているのでしょう。
引用文の三番目を読んだ時、私は、本居宣長の 「うひやまぶみ」 を思い起こしました。宣長曰く、
初心のほどは かたはしより文義を解せんとすべからず
まず 大抵に さらさらと見て 他の書にうつり かれや
これやと読みては また さきにみたる書へ立ちかへりつつ
幾遍もよむうちには始めに聞えざりし事しも そろそろと
聞ゆるやうになりゆくもの也
しょせん学問はただ年月長く、うまずおこたらずに、はげみ
つとめることが肝要である。まなび方はいかようにしても
よいだろう。さして拘泥するにはおよぶまい。方法がどれほど
よくても、おこたってつとめなければ効果はない。
徂徠の学習態度と同じです──生々しい 「事実」 との接触感を覚えるまで [ 対象がその性質を顕すまで ] 推参する。そこらに落ちている定規を拾って計るのではない。その態度には、なにがしかの ethics (職業上の徳義) が感じられるでしょう。こういう学習態度を 「学校教育」 の中で指導するのは難しいでしょうが──「学校教育」 では、知識を記憶する事や、「1つの正解を探す」 やりかたを指導する事が教育とされているので──、学校を卒業すれば、実社会では、自ら問題を立て ソリューション を探究する事が仕事となるので、私は徂徠の学習態度を倣いました [ 私は 50才を越えて初めて徂徠を本気で読みました ]。徂徠を知らなかったら、私は、きっと 「習之罪」 に陥っていたでしょうね。
(*) 徂徠の云う 「格物到知」 は、朱子学の云う 「天下の事物の理を究めて知を致す」 という意味ではない事に注意されたい。
(2013年 2月 1日)