Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション embarrassment のなかで、以下の文が私を惹きました。
Man is the only animal that blushes. Or
needs to.
Mark Twain (Samuel Langhorne Clemens; 1835-1910)
US writer.
Following the Equator heading of Ch. 27
Embarrassment の セクション には、二つの quotations しか記載されていなかった。もう一つの quotation は、Charles Dickens の文ですが、さほど私の興味を惹かなかった。二つしか記載されていないのだから、二つともここに引用してもいいのかもしれないのですが、興味を惹かなかった事について私は自分の思いを述べる事ができないので──私の意見を強いて綴れば綴れない事もないのですが、身になった思いを述べる事ができないので──、引用しないで置きます。
さて、embarrassment ですが、その語義は、a feeling of shyness, shame, or guilty とのこと (COLLINS COBUILD)。こういう価値判断 (shyness, shame, or guilty) を起こす感情は、文化の中で養われるので、西洋の embarrassment と私が日本人として感じるそれは 同じでない (ズレ ている) のは当然でしょうね。しかし、私の思考・感情が西洋化されているのかな、と感じた事態を 最近 体験しました。それは、駅で女子高生が転んだ時に、彼女が (照れてそうしたのか) 笑っていたし、それを見ていた周りの人たちも笑っていた光景です。私は、彼等の反応を観て奇怪に感じましたし、やや憤懣も覚えました──笑うべき事じゃない、と。この光景を幾人かの人たちに話したら、「きっと笑う」 という返事でした。私には、その感覚がわからない、、、。
私は、Following the Equator を読んでいないので、Mark Twain が どういう意図で上記の文を綴ったのか わからないのですが、一つの アフォリズム として読めば、「社会生活の中で embarrassment は、必需 (な感情) だ」 と言っているのでしょう。ちなみに、彼が綴った man は、現代では discriminatory term になるでしょうが、当時の意味で a human being, a person とか the human race の事でしょうね。そう考えれば、場違いな──即ち、domain in society の中で期待されている規範から逸脱した──振る舞いが embarrassment を起こすのでしょうね。そういう意味では、私は、(前回の 「反 コンピュータ 的断章」 で綴った様に absent-minded にもかかわらず、outspoken なので、) 周りの人たちにとっては随分と embarrassment だと思う。しかし、逆に言えば──言い訳すれば──、私は心にもない事を言えば困惑を覚える (feel quilty)。
世知辛い浮世 (憂き世?) を半世紀も生きてくれば、たいがいの人たちは、厚顔 (imprudent, presumptuous, shameless) になるのではないか。還暦近い私も、御多分にもれず、そうです。還暦は本卦還 (ほんけがえり)──産まれた年と同じ干支に返る事──だそうですが、赤い頭巾と赤いちゃんちゃんこを纏 (まと) う事は、私にとって、embarrassment です。60年間生きた後で産まれた状態に回帰する事を祝ってもらう程に、社会人 (a member of society) として実績のある充実した人生を送って来たという自信は、悲しいかな、私にはない (苦笑)。その意味では、私は自分の成して (あるいは、為して) 来た事について恥を知っているつもりです。
(2013年 2月23日)