Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション endurance のなかで、以下の文が私を惹きました。
What can't be cured, must be endured.
Proverb.
Endurance には 24篇の quotations が記載されているのですが、私が興味を感じたのは、上に引用した 1篇だけでした。上に引用した文も、実のところ、さほど興味をひいた訳ではないのですが、他の引用文に較べたら、少しばかり気になったというだけです。少しばかり気になった理由は、自分の性質 (自意識過多) について言われている気がしたからです。
こういう性質 (自意識過多) になりたくてなった訳でもないのに、今更ながら、自分の性質に苦しめられてます。念のために断っておきますが、私は センチメンタル になっている訳じゃない。こんな悩みは、社会と反りがあわない人たちが感じる月並みな悩みである事くらい私でもわかっているつもりです。だから、自意識過多と嗤 (わら) われる事は百も承知なので、嗤われても私は黙っているしかない。しかし正にその通りで、それこそが、他に成り得たであろう可能態の中で現実にそうなった──しかし、そうなった理由をはっきりとは述べる事のできない──人生の不可解さでしょうね。
しかし、私は、自意識と安直な折りあいをつけようとは思わないし、つけられるはずもない。衣装を着替える様に人柄を改造できるものなら──その類 (たぐい) の ハウツー 本の宣伝が新聞広告で目にするけれど──、さぞかし社会は清々するでしょうね、しかし性根はそう易々と変わらない。なぜなら、現在の自分は、過去の積み重ねだから。30才にもなれば、(過去を帳消しにする様な熾烈な体験をしない限りは、) そう簡単に性根は変わるものじゃないでしょう。今更ながら、こんな性質になったことを耐えるしかないでしょうね。
自分の性根は社会の中で育てられたのだから、たとえ社会と反りがあわなくても耐えるしかないでしょうね。小林秀雄氏は、この苦痛について、次の様な文を綴っています (「X への手紙」)。
たとえ社会が俺という人間を少しも必要としなくても、俺の精神は
やっぱり様々な苦痛が訪れる場所だ。まさしく外部から訪れる場所
だ。俺は今この場所を支えているより外、どんな態度もとる事が
出来ない。
誰でもが幾分かは こういう気持ちを持っているのではないかしら。
(2013年 3月16日)