Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション envy のなかで、以下の文が私を惹きました。
Better be envied than pitied.
Proverb
I am sure that graped are sour.
Aesop (6th century BC) Reputed Greek writer of fables.
Fables, 'The Fox and the Grapes'
Never having been able to succeed in the
world, he took his revenge by speaking ill of it.
Voltaire (Francois-Marie Arouet; 1694-1778) French writer.
Zadig, Ch. 4
Envy の語感は、英英辞典の依れば、次の様です (COLLINS COBUILD)。
Envy is the feeling you have when you wish you could have
the same thing or quality that someone else has.
少なくとも 40才代以後、私には他人を うらやましいと思う様な気持ちは殆どなかった。理由は簡単です、他人と比較する事をしなくなっただけの事で、自分自身の事を考えるのに手一杯というだけの事です。寧ろ、逆に、自意識と向かいあう事に忙しくて、他人への配慮を欠いたがために 「独断的」 と非難されて来た様です。
引用文の一番目は、「同情されるよりは、うらやましいと思わるほうがいい」 という意味ですが、低俗 [ 俗悪 ] ですね。それとは反対の事を (同情ではなくて、貶みとして)、私は言われた事があります。大学院を修了して無職になった時、生活費に事欠いて、(洋服を買う余裕がなくて、) 同じ作業服をズッ と着ていたら、「社会の底辺で生きてるね」 というふうに知人から厭味たっぷりと蔑む目付きで言われた事があります。知人と云っても、居酒屋で顔を知っている程度の間柄でしたが──居酒屋では、夕食を ツケ で食べさせてもらっていましたが──事あるごとに私に絡んできた人でした。おそらく、私の生きかたが彼の価値観では想像できなかったのでしょう。私も好きで無職になった訳ではないのですが、私は元来 不為な事を考えない気質なので、無職になっても充電状態にあると思って、無職になった事を気にもしていなかった。だから、彼の言った事は、余計な御世話だと思った。
上司には諂 (へつら) い部下には嵩高になる人たちを私は (仕事柄、数々の会社の中で) 数多く観て来ましたが、そんな振る舞いは渡世術とは違う。渡世術を心得ている人は もっと悧巧です。渡世術に巧みな人は、権力に従順しつつ、腹の中で舌を出している。しかも、それをわからないように振る舞う、強 (したた) かです。それほど悧巧でない人が、他人と較べて、自分自身の社会的座標を確認したがる。そういう比較に慣れてしまうと、いつのまにか、自分より社会的に格下と思われる人を見下げるような思い上がった意識や自分より優れた人には媚び諂う卑屈な意識が出てくるようです──引用文が低俗だと私が言ったのは、そういう理由です。
引用文の二番目は、sour grapes ──たとえば、I cried sour grapes ──という言いかたもあって、「負け惜しみ」 (be a bad loser) の事。これは、私も たびたび 体験しています。選択枝がいくつかあって、選択した道が思う様な成果を生まない時、たいがい負け惜しみを言う──日本語の慣用句では 「引かれ者の小唄」 という言いかたがあるのですが、私の人生は (モデル 論に手を出して以来、) 「引かれ者の小唄」 状態です (苦笑)。「やってしまった事を悔やんでも変わらないのだから、後悔してもしかたがない」 というふうに私にかつて助言してくれた人がいるのですが、それが腹に入った年令は還暦近くになってからであって、様々な可能性を捨てたという事は── 1つの可能性を選んだという事は、他の可能性を捨てた事になるので──、後髪を引かれる思いがする。そして、選択した道が思う通りにいかない時に、ついつい負け惜しみを言う。捨てた可能性も実際にやってみなければ、どうなるかわからないのですが、今まで泥の中を歩いて来た足跡を見れば見るほどに、捨てた可能性のほうが (可能性であるが故に) 良く思われる。元来、自分自身というものは、実践を通して、その実践が成した事を以て測られるのですが、自意識が自分を空想して、「もっと上手にやれた筈だ」 と思いたがる様ですね。
引用文の三番目は、そういう人々を思い当たるのですが、負け惜しみを隠くそうとして皮肉を言っている見せ掛けは滑稽です。さほど鋭くもない皮肉を聞いて、これはきっと負け惜しみを隠して言っているんだと推測すると、その意味は ひっくり返って、言い訳の様に聞こえて、私は心の中で、げらげら笑う。我々は 「成功」 という空虚な観念のために働くのではないでしょう、働く事の中で愉しみ・苦しみを味わい、そういうふうに働きながら、自分を充実するのではないか。モデル 論は私の成熟する場所でした。しかし、世間的には、モデル 論など極めて少数の システム・エンジニア が専門にしているにすぎないし、数学基礎論として すでに確立されている技術なので、世間的な 「成功」 の可能性は毛頭ない。それでも、そんな モデル 論の仕事を 30年も続けないと、モデル 論の魅力はわからない事もわかった──長いあいだ、仕事を続けていれば、世間的に 「成功」 しなくても、それを償って余りある (モデル 論の) 「伝統」 というものをしっかりと体得する事ができた事を私のくらいの程度の凡人には精神的な 「成功」 と云っていいのではないか。しかし、こういうふうな考えは、負け惜しみかもしれない (笑)。
(2013年 4月 1日)