Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション etiquette のなかで、以下の文が私を惹きました。
I think she must have been very strictly
brought up, she's so desperately anxious to
do the wrong thing correctly.
Saki (Hector Hugh Munro; 1870-1916) Bristish writer.
Reginald on Worries
Formalism (= strictly attention to customary forms) に対する皮肉とも読めますね──(とても厳格に育てられたに違いないので、) 悪い事さえも正確に実行しようと どうしようもないほど必死になっている、と。「訓練された無能」 という言いかたもあります。習慣は、ややもすれば、形骸化しやすいのでしょうね。
エチケット が他人との交際のうえで大切な事は誰も否定しないでしょう。エチケット は、交際上 不快を感じない距離を他人に対して置くのでしょうね、交際上 生 (なま) の感情を顕わにされては堪らないという ルール です。したがって、エチケット には、一国の文化が収斂します。居酒屋に会社仲間が集まって親睦を図る文化を持つ国民と 会社の帰りには仕事仲間と殆ど呑まない──呑んでも、小一時間くらい──欧米の国民では、エチケット が違う事は当然でしょうね。
私は我が儘に思われているので、エチケット を配慮しない様に推測されるかもしれないのですが、若い頃には、(コンピュータ業界の) 会社 [ 米国の会社 ] の トップマネジメント たちと会談する事が多くて、一応、(西洋流の) エチケット を身につけています。当時勤めていた会社の社長 (ビル・トッテン 氏) の随行 (技術相談役) として米国の トップマネジメント たち・マネジャー たちとの数多くの会談を体験して、私は (西洋流の) エチケット を覚えました。
ビル・トッテン 氏に初めて随行して会談に出席した時、ホテル・オークラ の レストラン で、夕食は フランス 料理の フルコース でした (会談相手は誰だったか忘れました)。そんな豪華な御馳走は、生まれて初めて食べるので、西洋の食事作法を知らなかった──私は、ビル・トッテン 氏と会談相手との作法を観て真似しながら食しました。食べ物を味わう余裕などなかった──彼等の作法を真似する事に必死だったので、私の食べかたは、きっと、様 (さま) になっていなかったでしょう。米国に一人で たびたび出張する様になって、米国の大会社の マネジャー たちと会食しても、怖じ気をふるう事はなくなりましたが、食事作法を自然に振る舞う様になるまでには、数年ほど掛かりました。話題にも配慮しなければならない。幸いにも、彼等には日本人が珍しかったので、日本の事を色々と聴きたがった。しかし、不幸にも、私は日本の事を知らなかった (Fuji-yama、geisha、sumo、sushi の話題だけでは日本を正しく伝えた事にはならないでしょう)。「国際化の時代」 と云われていますが、現代の日本を英語で正確に語る事のできる人は少ないのではないでしょうか。私も御多分に漏れずそうでした。以来、私は、自分が産まれ育った日本を意識して、改めて自国について学習しました。
服装 (仕事着) も定番が存します。米国人は 「正式な」 場所では、画一な服装をします──それは日本人も同じでしょう。A weekend party で、サングラス を掛けて アロハシャツ を身につけている若い人物 (20才代後半の米国人) を、スーツ 姿の日本人たちが軽んじているのを聞いた事があるのですが、その若い人物は有名な大学の教授だった事を日本人たちは後で知って仰天してしたそうです── a weekend party に スーツ 姿で現れる事こそ、場違いでしょう (笑)。ただし、upper class の party では、カジアルウェア は スーツ の事です。住居の場所で だいたい身分がわかる── Down town から遠いほど、階級が上がると思っていいでしょう (米国は強烈な階級社会です)。服装 (仕事着) については、本 ホームページ の 「佐藤正美の問わず語り」 に綴っているので、ご覧いただければ幸いです。
さて、日本では、私は服装を殆ど配慮しない (笑)。勿論、「正式な」 場所では相応の配慮をしますが、気が置けない仲間との仕事では殆ど カジアルウェア で通しています (「気が置けない」というのは 「気が置ける」 (遠慮がちになる) の反対語です、最近はその意味を逆に使っている若い人たちが多いので、念のため)。私が初老になった所為なのか、私を 「先生様」 扱いする人たちが増えて来て、居心地が悪い (苦笑)。私を (年令・肩書きではなくて) 実物で観てほしいし、仕事の出来ぐあいで評価してほしい。私がモデル 論一途に年令を重ねて来たというだけの理由で 「先生様」 扱いされるのは心外です。そういう扱いに対する私なりの反抗です──勿論、サングラス を掛けて アロハシャツ を身に纏う様な大胆不敵な恰好はしないのですが (笑) [ たいがい、それでも気を遣って、普段着とは云っても、色は黒で統一して、「制服」 の様に見える配慮をしています ]。しかし、今年から、仕事着には スーツ を着ようと思っています。
私は還暦を目前にして──今年の 6月で還暦になりますが──、心境の変化もあるのかもしれない。エチケット は礼儀作法であって社会に下ろしている根は深い。深いが故に、それさえ守っていれば、非難される事がないと思う人たちも多い。だから、若い人たちは──特に、才ある若い人たちは──、それに反抗するのでしょう。それは若い人たちの特権なのかもしれない。しかし、還暦間近の私が若い人たちの中にいつまでも混ざっている訳にはいかないでしょう。なぜなら、私は、今後の 10年を、今まで探究してきた モデル 論の 「収穫」 期として考えなければならないので、今から伸びようとしている若い人たちとは仕事の取り組みが根本的に違っています。「先生様」 扱いされるなら、それはそれでも宜しい。そして、社会が定めた ルール に抗 (あらが) う無用な事に気を遣いたくはない。なんのことはない、私は、年老いて、力を注ぐべき仕事の他には徒為な事はしたくないというだけの事かもしれないのですが。
ちなみに、日本人は エチケット の基本すら怪しげです── please (御願いします) と thank you (ありがとう) を言う人たちが滅多にいない。立派な スーツ を着ていても、これではすべてが台無しでしょう。
(2013年 4月23日)