Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション examination のなかで、以下の文が私を惹きました。
Examinations are formidable even to the best
prepared, for the greatest fool may ask more
than the wisest man can answer.
Charles Caleb Colton (?1780-1832) British clergyman
and writer.
Lacon, Vol. U
Formidable は inspiring fear or dread (あるいは、inspiring respect or awe) の意味で、clergyman は、a priest of the Church of England (英国教会の聖職者) の事。文脈がわからないので (そして、どういう人々を the fool や the wise と言っているのかもわからないので)、Colton 氏が examination に対して for なのか against なのかが はっきりしないのですが、この引用文を読む限りでは、examination には際限がある事を述べています。
学校の試験の事を悪く言う人々もいますが、有名な小学校・中学校・高校・大学・大学院の入試を通って来た人たちは、頭がいい。「頭がいい」 という意味は、与えられた問題に対して、答えを効率的 [ efficient ] に出す事が巧い──私は、皮肉で言っているのではないので、念のため。そういう人々は、与えられた目的に対して、卒のない (合目的性の周到な) 論を構成する事が巧い。
世の中には、高学歴ではないけれど頭のいい人々も多数存します──「頭がいい」 という意味は、仕事 (あるいは、生活) の中で起こった問題 [ problem ] (あるいは、潜在的問題 [ issue ]) に対して、答えを効果的 [ effective ] に出す才の事で、実体験で学んだ才でしょうね。独学で養った才も熟せば、学校で指導された才とは違う風味がそなわって来る様ですね──私は、そういう人々を幾人か知っていますが、そういう人々は (弁才が鋭くはないけれど、) 言い難い説得力を持っている。
さて、引用文の意味は、「試験はこの上ないほどに準備した人にとってさえも恐ろしいものである、というのは愚かな人でも賢い人が答えうる以上の問いを出す事ができる」 という意味ですが、人生に関する問題は殆どすべてそうではないかしら。寧ろ、答えはない、と言い切っていいのではないかしら。人々が、それぞれ、生きかたで、答えを示すしかない。そう考えれば、学校で指導されるのは 「教育」 ではなくて──勿論、教える側からすれば、「教育」 ですが──、学ぶ側からすれば 「教育の材料」 であって、学校を卒業してからは独りで考えれられる様にするのが、学校教育でしょうね。高学歴の人たちは、この 「材料」 を多く持っていると言っていいでしょう。本居宣長曰く、
一人の生涯の力を以ては、ことごとくは、その奥までは極め
がたきわざなれば、その中に主 (むね) としてよるところを
定めて、からならずその奥をきはめつくさんと、はじめより志
を高く大にたてて、つとめ学ぶべきなり。然してその余の
しなじなをも、力の及ばんかぎり学び明らむべし。
(「うひ山ぶみ」)
江戸時代の古い言と言うなかれ、現代にも見事に通じる言でしょう。現代では、教育の 「材料」 (知識 [ 学んで知る事 ] や、思考力 [ 与えられた問題に対して答えを探す基本的な思考 ]) が学校制度の中で指導されていて、「材料」 の修得を証明するのが卒業証書でしょう。卒業は、終了であると同時に旅立ちを意味しています。学校で指導された 「材料」 を用いて、どの様に生きるかは自 (おの) ずから べつの問題です。
常に生き生きとした問題を抱いて、常に溌剌として生きているという事が単純ではないのです──学歴は関係がない。高学歴で まるで味も素っ気もないにもかかわらず、悧巧になった様な顔をしている人たちも多いし、学歴がなくても、生活・仕事の中で自らを高めた人々もいるし、「材料」 の修得度を計量する事 (試験) が、その 「材料」 を用いて どういうふうに生きているかを考査できる訳ではないでしょう。我々は、生活・仕事の中で成熟します。生活・仕事を真摯に建設している人を誰も嗤 (わら) いはしないでしょう。もし嗤う人がいたら、嗤う人こそ落第生と見做(みな)してもいい。
(2013年 5月 8日)