Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション example のなかで、以下の文が私を惹きました。
Example is the school of mankind, and they
will learn at no other.
Edmund Burke (1729-97) British politician.
Letters on a Regicide peace, letter 1
Example は、引用文では 「実例、見本、規範」 の意味でしょうね。Burke 氏は 「人類の教育の場」 と言っていますが、そう言い切られたら── of mankind という言いかたをされたら──、私は反感を覚えます。だから、私は、example の意味を私事に限った意味で使って、「私淑する対象」 というふうに制限して意見を綴ってみます。「私淑」 (「私 (ひそかに) 淑 (よしとする)) の意味は、親しくその人につかず、ひそかに規範として学ぶこと。
模倣について、世阿弥元清は 「花鏡」 のなかで次の様に述べています。
至りたる上手の能をば、師によく習ひては似すべし。習はで
似すべからず。上手は、はや究め覚え終りて、さて、安き位
に至る風躰 (ふうてい) の、見る人のため面白きを、唯面白
きとばかり心得て初心、是れを似すれば、似せたりとは見ゆ
れども、面白き感なし。
世阿弥の言う様に、師から直に指導されたほうがいい事は論を俟 (ま) たないけれど、書物から学ぶ際はそうはいかない。しかしながら、歴史の中で天才という評価が定まった人物を師として仰ぐ際、その人物の著作を通してしか学ぶ手立てはないでしょう。生身の師がいれば、学習の途上で、師の論説について わからない事を訊けば知る事ができますが、書物ではそうはいかない。しかし、立派な教師というものは自分の個人的影響を弟子が蒙らない様にして弟子が自ら考える様に励ます人物であって、弟子のほうも ひたすら猿真似する連中は師の論説を咀嚼していない連中なのではないかしら。私が手本としている人物の一人たる荻生徂徠は 「礼記 (らいき)」 を愛読していましたが、「礼記」 には、「君子」 について、次の文が綴られています。
君子の教諭するや、道 (みち) びきて牽かず。強めて抑へず。
この文の意味は、「導いて手引きはするが、無理にひっぱる事をしない。つとめて鼓舞するけれど、押しつけはしない」。師が いくら指導しても、弟子が師の論説を実際に体得して巧みに運用できるかどうかは弟子の自得に俟 (ま) つ他はないでしょう──師が規矩 (手本) を与えても、弟子を巧みならしむる事はできない。そして、師は自分が知っている知識を時々黙っている事はできても、探究した知識について生半可な態でいる事は許されない。
「礼記」 からの引用を もう 2つ──「記問の学は、以て人の師を為すに足らず」 「善く教ふる者は、人をして其の志を継がしむ」。「記問の学」 とは、古書をただ暗記して質問に答える事、すなわち猿真似。「姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ」 (本居宣長)。普通なら、形を真似る事は簡単だが、意味を把握するのは難しいと云うでしょうね。姿 (形式) が難しいと知る事は、猿真似にはわからない──「其の志を継いで」、はじめて姿 (形式) を倣 (なら) う事ができる。「唯面白きとばかり心得て初心、是れを似すれば、似せたりとは見ゆれども、面白き感なし」。師を猿真似する事は、弟子の仕事ではないでしょう。姿 (形式) が意味である事を了得するには、存外長い年月を費やさなければならないのかもしれない。私は還暦間近にして やっと それがわかった。
(2013年 5月16日)