Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション experience のなかで、以下の文が私を惹きました。
Experience is a good teacher, but she sends
in terrific bills.
Minna Antrim (1861-?) US writer.
Naked Truth and Veiled Allusions
「経験」 というのは、先ず やりたい事の目標を立てて、その目標を必ず実現しようと尽力しないならば、しっかりした意味や価値をもつという事はないでしょうね。そして、それは、往々にして、失敗という犠牲 (対価) を払いながら、ゆっくりと人生を教えてくれるのかもしれない (she sends in terrific bills)。私くらいの年令 (還暦) になれば、その事を痛感します。後知恵は誰でも浮かぶものですが、後知恵の買値は高い。
私の壮年期 (40才代、50才代) は、モデル 論の探究に費やされました。そして、出来上がった論を眺めて思う事は、これしきの事に 20年も費やしたのかという嘆きです。私の頭が悪かったので、それほどの長い年月を費やした事は否めないのですが──数学基礎論や哲学 (分析哲学) を学習した年月もふくんでいるのですが──、支払った対価は甚 (はなは) だ大きかった。私生活を豊かにするはずの仕事が私生活を犠牲にするはめになった──私の生活のすべてが (特に 50才代には) モデル 論に献 (ささ) げられました。
実際に仕事をすれば、高眼低手 [ 頭でわかって口で批評するのはたやすいが、実際に技術を使うのは難しい ] である事を実感するでしょう。そして、技術を巧く使える様にするために様々な工夫を試みるでしょう。モデル 論の技術を整えるために──理論的な整合性、技術の単純性、技術の有効性をそれぞれ出来る限り最大限に調和して整えるために──、私は 20年ものあいだに様々な工夫をして来ました。勿論そのあいだに経験した仕事の工夫は私の思考・精神の滋養にはなっていますが、余りに長い年月を費やした事を後悔しています。しかし、社会的適応力に乏しい文学青年 (私) が曲がりなりにも社会の中で (はみ出しものにならないで) 仕事ができたのは、モデル 論に従事した恩恵でしょうね。
モデル 論を探究して来たに違いはないけれど、モデル 論を専門にやって来たかと考えると、どうもそうだと言い切れない。哲学 (分析哲学) ばかりやっていた時期もあったし、英語ばかりやっていた時期もあった。一つの対象を決めないで、ただ好んで物を考えて来たというのが事実であって、小説家に成り損ねた文学青年がたまたま 「言語」 に興味を持って、文学・英語・哲学・数学の交点として モデル 論 (形式的言語の論) を選んだ、というのが実態なのかもしれない。そんな気質の システム・エンジニア だから、モデル 論に関する英語の文献を祖述して専門家ぶるほど凡暗じゃないつもりです。
青年であれば可能性で評価されるのですが、初老ともなれば実際に成して来た事 (経験) でしか評価されない。数学基礎論や哲学を学習して、モデル 論を探究しても金銭的に酬われる訳じゃないし、衆望を得られる (俗 ウケ する) 訳でもない。自分 (の思考力) との戦いなのです──考える事に取り憑かれた、そういう事を好む気質になった自分を私は呪う他ない。
20年は去って了って、モデル 論を作る事で自分を証明した事が そのいっぽうで後悔となっています。しかし、たぶん、他の事をやったとしても後悔したのかもしれない。
(2013年 6月 8日)