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There is no waste time in life like that of making explanations. (Benjamin Disraeli)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション explanations のなかで、以下の文が私を惹きました。

    There is occasions and causes why and
    wherefore in all things.

    William Shakespeare (1564-1616) English dramatist.
    Henry X, X:1

 
 Occasions and causes および why and wherefore という言いかたは、類語反復 (同意反復) と思っていいでしょう、リズム がいいですね。「すべての物事には、訳 (わけ) や 謂 (いわれ) がある」 という意味かしら。十六世紀後期には、There is never a why but there is a wherefore (わけ には必ず いわれ がある) という諺が広まっていた様です (「英語ことわざ辞典」、大塚高信・高瀬省三 共編、三省堂)。Occasion (= incidental cause of something)と cause のちがいは、次の文を読めばわかるでしょう (Idiomatic and Syntactic English Dictionary, Hornby 他)。

    The real causes of the strike were uncertain but its occasion
    was the dismissal of two workmen.

 或る出来事が直接の原因であるかどうかは定かではないけれど、誘因 (導火線) になっている、という現象は、日頃、多々観られるでしょう。たとえば、相手の言った些細な ことば に いきなり色をなすとか。他の人たちが聞けば、そんな些細な ことば に どうして怒るのか わからないけれど、その些細な ことば が直接の原因ではなくて、それが誘因になって、つきあいの中で今まで我慢して鬱積していた怒りが堰を切ったという状態でしょうね。結末に至った一つの確かな原因は指示できないけれど、そこに至るまでの様々な由来がある、というのが内実でしょうね。

 私は システム・エンジニア を職にしているので、その習性として、「論理」 規則を重んじます。そうだからといって、むやみに 「論理」 を振り回している訳ではない──論理的 「真」 とは、私にとって、私が他人に反駁を許さない様に立証した (立証できる) 推論であって、それ以上のものではない。

 或る現実的事態がその法則を明かすのは、事態そのものが モデル として制作できる時に限られるのであって、モデル 化できるためには、事態が モデル 化される前に 「計算可能」 である事を前提にしています。つまり、「論理」 には、推論において告白的な様々な由来が這入り込む余地はないのです。モデル は、つねに現実的事態からその構成条件に遡りつつ、我々が現にその事態を見る様に再生する条件を明らかにすれば上出来なのです。

 システム・エンジニア を職にしていながら次の様に言うのは奇妙に聞こえるかもしれないのですが、私は (自然科学の法則を除いて) いかなる 「法則」 にも あまり信を置かない質 (たち) です。思考の苦労をもうしなくてもいい様にと、証明と要約と結論をもとめがちですが、きちんと決められている 「法則」 は我々を往々にして欺く。「法則」 は 「現実」 を資料にして作られ、「法則」 がいったん立てられると、「法則」 を通して 「現実」 を観る様になるのですが、その 「法則」 が真とされる値を充足する条件は忘れ去られる事が多い。

 出来事に付帯する条件の数の多少に因り、或る出来事は特有な出来事に見えたり、類似して見えるだけです。「法則」 の目的は、現実的事態を構成しているこれら条件を明らかにする事にあるはずです。「法則」 は単純ですが、その前提 (前提を定立する事) が難しい。そして、前提 (前件) が 「真」 であれば、推論が論理規則を守っていれば、帰結 (後件) は 「真」 となるはずです。しかし、「真」 なる後件から前件が 「真」 である事を推測できない (仮言命題の真理値表で明らかでしょう)。しかし、我々は、うっかりすると、「法則」 を類似の事態に対して、前提を吟味しないで使ってしまいがちです。だから、「法則」 をむやみに使うとは、或る事態を下手に思考することなのです。

 「法則」 (「原因-結果」 関係) は、連続的・反復的な事態の計算可能性に依存していて、継起の順、その頻度、その周期が明らかな事態に限られて現れる作用であって、唯一つの反復性のない事態では 「法則」 はそもそも見いだせない。我々の行為は、瞬時の知覚 (知・情・意) に基づいた直接的判断に依存していて、現実の動機は決してひとつも法則的なものを持たない。しかし、行為 (体験) の意味を知るには、連続の理論的な考えかた、すなわち 「原因-結果」 関係において行為 (体験) を観るしかない、そう考えなければならない。行為 (体験) というのは、事実の上では、様々な誘因をふくんではいるけれど、正しかろうが間違っていようが、ともかくも 「原因-結果」 関係の中で意味を見つけ出さなければならない。ここに、行為の (あるいは、人生の、歴史の) 連続として、「原因」 という考えかたが単純化された図式として姿を現します。

 人生では、すべての基本となるのは人間的個体ですが、我々は社会の中で生活しているので、いかなる個人も他人との関係において考えなければならないがゆえに、「関係」 という抽象的性質によって、あらゆる行為は外的原因に翻訳される。しかし、外的原因は、どんなに詳細に描写されても、本人の心中に到達しうるものではないでしょう──だから、傍観者の推測と行為者の知覚は相違しがちです。この事は他人に忠告・非難された時に誰もが感じている事ではないかしら、他人が事の次第を推測しても、「ほんとうの理由 (由来) を知らないくせに、弥次馬が もっともらしい事を言っている」 というふうに感じる事が多いのでしょう。そういう事を私自身が感じるがゆえに、私は 「法則 (「原因-結果」 関係)」 にあまり信を置かない──単純に図式化された 「原因-結果」 関係を鵜呑みにしないで、「わけ には必ず いわれ がある」 というふうに考えたほうが マシ ではないかしら。実人生が抽象的な物語でない所以は、その構成条件が豊富で純でない事に因るのだから。

 
 (2013年 7月23日)

 

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