Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション exploitation のなかで、以下の文が私を惹きました。
I should be trading on the blood of my men.
Robert E. Lee (1807-70) US general.
Refusing to write his memoirs
Nobody Said It Better (M. Ringo)
Robert E. Lee は、米国南北戦争 (The American Civil War) の時に南軍の総司令官 (Full General) だった人物です。「南部の英雄」 と云われている人物です。私は、米国南北戦争について知識がないし──Robert E. Lee について Wikipedia を読みましたが、それ以上の知識がないし──戦争を経験した軍人でもないので (部下たちが──しかも、数万人あるいは数十万人が──死ぬという状態を目の当たりにした事がないので)、自叙伝を書く事を勧められたにもかかわらず、それを拒否した時に言った この ことば について私が感想を述べる事は僭越の沙汰でしょう。私も そういう状態にあれば そう言うだろうと想像するのは、呑気な空想でしかない。
部下たちが立派な仕事をすると、それは上司の手柄になる。上司が間違いをすると、それは部下たちの失敗になる──間違いを認める事のできる上司は めずらしいでしょう。上司が間違いを認めても、部下たちの上司に対する信頼感に揺るぎがないという状態は、上司の人柄 (そして、部下が一目置く仕事の技術) 次第ではないかしら。
「わしの言葉はわしのものだが、わしの行動はわしの大臣たちのものだ」 (英国国王 チャールズ 二世、「ロチェスター 卿への返事」)──この自覚が リーダ (leader) たる条件でしょう。そして、この自覚を根源にして、リーダ であるための色々な条件が派生するのではないかしら。そう考えれば、Robert E. Lee の引用文の中にある blood of my men も納得できますね。彼は敗軍 (南軍) の将です、「英雄」 扱いされる事を嫌がっていたのではないかしら。しかし、本人がどう思うとも、将 は 「英雄」 でなければならない。そうでなければ、兵卒は信望を抱かないでしょう。多くの人々の信望を集める魅力があるという意味では、リーダ は様々な条件の下で生まれる事件 [ 稀有な出来事 ] ではないかしら。リーダ は一定の手続きで育成できる性質では決してないでしょうね。そういう育成 プログラム は、諸条件の一つにすぎない。
リーダ たる資質は、リーダーシップ 論に言い尽くされているでしょう──私はそういう書物を読んだ事がないのですが、専門家が論じているので、先ず信頼していいでしょう。しかし、そういう書物は、リーダ になる人々が読めばいいのであって、私なんぞは読むつもりもないです。或る リーダ の下で働く時に、どのような人物が リーダ としていいかを述べるのは難しいけれど、リーダ になってほしくない人物の性質を述べる事は たやすいでしょう。たとえ リーダーシップ 論に論じられている資質・技術をすべて習得していたとしても、リーダ の自覚がない人物は リーダ にふさわしくない。リーダ が部下たちについてその 「生産能率」 しか考えなければ、部下たちを喰物 (exploitation) にするために、不満の声が起こる。リーダ の自覚とは、目的を実現するために部下に対して responsibility を負う事です、「わしの言葉はわしのものだが、わしの行動はわしの大臣たちのものだ」 という自覚です。Robert E. Lee は、敗軍の将になったのにもかかわらず、尊敬されたのは、この自覚を喪わなかったからではないかしら──「I was beaten」 と認めても、「My men were beaten」 とは決して言わなかったのではないかしら。
(2013年 8月23日)