Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション extravagance のなかで、以下の文が私を惹きました。
I suppose that I shall have to die beyond my means.
Oscar Wilde (1854-1900) Irish-born British dramatist.
When told that an operation would be expensive. He is also
believed to have said 'I am dying beyond my means' on ac-
cepting a glass of champagne as he lay on his deathbed
Life of Wilde (Sherard)
Oscar Wilde 氏がそう言えば様 (さま) になるけれど、私のごとき凡人がそう言っても身の程知らずの浪費家と思われるのが精々でしょうね。Extravagance には、浪費 (wastefulness or carelessness in spending money) の意味のほかに、言行の行き過ぎ・突飛さ (being careless or thoughtless in speech or behaviour; going beyond what is right or reasonable) の意味もふくんでいるそうです (Idiomatic and Syntactic English Dictionary)。
I shall have to die beyond my means という思いは、文学 (あるいは、芸術) を志した人たちなら、きっと一度ならずとも抱く思いではないかしら。そして、「美」 に取り憑かれた人たちの振る舞いは、世間の常識から云えば、careless or thoughtless in speech or behaviour と思われる事も多いでしょう。そういう人たちの中から Oscar Wilde 氏のような すばらしい作品を物する逸才がでて、すばらしい作品を遺した人物が言えば世間は納得しても、作品を遺す事のできなかった人たちが同じ事を言えば戯言と見做(みな)すのでしょう──実績の成せる信憑性でしょうね。新しい芸術などというものはない。何もかも言い尽くされている。しかし、何もかも言い尽くされていて、何一つ理解されていないというのが芸術の逆説ではないか。だから、作品を創る事のできなかった文学青年でも文学についていっぱしの事は言えるが、ただ好みでやがて散漫な談話として消えてしまう様な批評の機会を得たにすぎない。作家は作品がすべてです──話の面白みと文体がないならば、決して作品として通用しないでしょう。
私は創作に対して充分な尊敬を払ってきたか。そうは言えない、と私は告白しなければならないでしょうね。それどころか、若い頃に私は何でもやってのける器用な才に溺れて、種々様々な批評を玩 (もてあそ) んだというのがほんとうのところで、見くびっておいてから批評する事が多かった。批評して偉そうぶっている私は、他人を阿房呼ばわりして怒らせる事を物の見事にやってのけたのです。そういうふうに若い頃を浪費した私の行き着いた末は、何一つ創作できぬ身の程知らずの浪費家です──私の言う浪費家は、Oscar Wilde 氏のような一事を成すための浪費家でなくて、あちこちを徒に食い散らした浪費家です。食い散らしの浪費家は、全然仕事を持たないか、仕事が少なすぎるか、あるいは やりたい仕事を持たないという事が根本原因でしょうね。食い散らしの浪費家に不足しているのは、いつも仕事をする時間です──これは器用貧乏たる喜劇 (悲劇?) です。私は忠告なんかしているのではない。自分の仕事の果てについて苦い独り言を洩らしているのです。
(2013年10月29日)