Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション eyes のなかで、以下の文が私を惹きました。
It needs no dictionary of quotations to remind
me that the eyes are the windows of the soul.
Max Beerbohm (1872-1956) British writer.
Zuleika Dobson, Ch. 4
私は、相手の人柄を第一印象として感知するときに、目と顔を観る事が多い。たぶん、多くの人たちも、そうではないかしら。そして、私自身が髭を剃るときに、鏡に映った自分の目・顔を観て、自分でありながら「他者」であり「外面」であるのと同時に自分の意志と精力 (活動力) によって創られた彫塑物ではないかとも思うのです。そして、還暦になって、目の耀きが喪われた様に思う。
「目は口ほどにものを言う (目を見ればわかる)」 という諺は、相手の目だけを見ているのではなくて、相手の顔の形相 (表情) をもふくめた雰囲気の事を云っているのでしょう。生きた身体には、外部からの抵抗 (刺戟) にしたがって運動する筋肉の性質があるので、筋肉の形の変化を我々は見ているのでしょうね。そして、筋肉の変化によって、(瞳孔のほかは動かない)目の形相が変わる様に──目が表情を持っている様に──見えるのでしょう。肉体の動きは観念の変化に較べて遙かに微妙で正直なのだから。試しに、顔の表情を変えずに、目の表情を色々と作ってみようとすれば、生理上の目が表情を持っていない事がわかるでしょう。身体の反応は、感官や脳髄や筋肉を通してであって、それらの中には 「精神」 は収蔵されてはいないのだけれど、「精神」 はどういうぐあいに身体に関係しているにせよ、見事に一体になっているのは事実でしょう。
そして、「精神」 (自意識) を肉体から切り離して考えてみなければ、自分の精神が自分の精神自体を眺める事もできない。しかし、自分が自分を眺めている様には、他人はそう眺めていない事を我々はやがて知る様になる。自意識とは劃然と離れた べつの 「外面」 が もともと社会的な自分自身の存在であり他人の判断によってしか評価されないという事を我々は知る様になる。
私は システム・エンジニア を職としています。本来、エンジニアの自意識は技術だけに働いていればいいのであって、自分の 「精神」 についての自意識は技術の邪魔になっているのかもしれない。確かに、髭を剃るときに覗く鏡に映った私の眼は エンジニア らしからぬ目であって、私が自分の 「精神」 を探らなければ、もっと すばらしい技術を物にする事ができたかもしれない。もし私が すぐれた エンジニア であって、抜群な技術によって人々に有無を言わせないほどの存在感があれば、仕事の嫌な我慢は、もっと少なかったであろうと思う。自意識によって自分の馬鹿さ加減を痛烈に意識すると同時に、還暦の私は目の耀きを喪ったのだと思う。60歳にもなれば、もう美しい建設的な夢をみる事は殆ど絶望的で、どんな生きかたをしたって (若い人たちに較べて) 溌剌である事はないでしょうね。「古き為手 (して) は、はや花失せて、古様 (こやう) なる自分に、珍しき花にて勝つ事あり」 (花伝書)、「花の萎れたらんこそ面白けれ、花咲かぬ草木の萎れたらん、何か面白かるべき」 (同)、「年々去来の花」 を咲かせる前に、私は倒れてしまわない事を切に祈っています。
(2013年11月23日)