Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション facts のなかで、以下の文が私を惹きました。
Facts do not cease to exist because they are ignored.
Aldous Huxley (1894-1964) British novelist.
Proper Studies
Facts speak louder than statistics.
Geoffrey Streatfield (1897-1978) British lawyer.
The ObserverSayings of the Week', 19 Mar 1950
一番目の引用文について、我々の眼球の構造が人ごとに違っていないかぎりでは、「現実」 が網膜に写される像が異なっていない筈ですが、同じ事物を観ても、画家の観ている 「現実」 と システム・エンジニア が観ている 「現実」 は異なった 「印象」 (心象) として映る様ですね。すなわち、我々は、それぞれ営んでいる生活 (および、仕事) に即した 「現実」 を観ているにすぎない──世界は見えるがままのものではない事を我々は承知している、必要以上の感覚を節約する。事実を述べるために、「この眼で観た」 と云うことがあるけれど、その見かたが怪しい。感覚の この節約には、学習してきて習得した知識が多大に影響するので、私が自戒としているのは、軽信された法則だけで物事を眺めて判断する事です。
いかに多くの知識をもって臨んでも、「現実」が我々に教えるものは、唯一無二のあるがままの様相です。見えるがままの世界をありのままに描き出さなくてはならない。ところが、これが容易ではない。色々な視点によって色々違って見えるものが実はたった一つのものであるという事を表すには、学問 (科学、数学) に頼る以外に無いのではないか。小学校の作文の授業で、「『事実』 と 『意見』 を混同してはいけない」 と習ったのですが、情報科学の技術を仕事の道具としている筈の システム・エンジニア が、事業分析において モデル 図を制作する際、物の見事に (平然と) この規則を破っているのは、今さら愕く私ではないけれど──過去 30年間、嫌と云うほどそれを見て来ましたが──自分の職場が荒れているのを見るのは決して気持ちのよいものではない。
二番目の引用文について、私は、物心ついた頃から、「統計」 というものに信を置かない様になりました──私が文学好きなのも、そういう性質に影響しているのでしょう。たとえば、大学受験で使われている 「偏差値」 は技術的には (専門家が考案したので) 正しいのでしょうが、私は高校生の頃に一度もそれを気にした事はなかったし、参考にするつもりもなかった。自分がやりたいと思う事をやるしか興味がなかった。統計上で 「平均」 を知って どうする訳でもない、「平均的な」 人っているのかしら? 私は英語で苦労しているので、もし英語に堪能な人がこの エッセー を読んでいたら教えてほしいのですが、ordinary people (「平凡な人」) という語は私は知っているのですが──そういう題名の映画もありましたが──、average people という語は目にした事がない。もし、average people という言いかたがされていたら、きっとなんらかの意図 (統計上考えられるという意味) がある筈です [ 経済学でいう 「合理的経済人」 の様な使いかたをするのではないでしょうか ]。
「『平均』 の魔術」 については統計学の書物に丁寧に書かれているので、この エッセー で述べる事もないでしょう。そして、それを図化した時に、たとえば、stock (一時点) や flow (変化) として、X 軸・Y 軸の マス 目の幅の取りかたによって与える印象が違って来るのは、「魔術」 の一つでしょうね──マス 目を広くとれば、座標上に描かれる線は ゆるやかな変化として見えるし、マス 目を狭くとれば、線は急な変化として見えますが、テレビ 番組で統計を使って説明している場合には、rate (割合) を はしょる事が多いので、私は注意深く統計図を観る様にしています (統計図を意図的に印象形成として使っていると思いたくはないのですが)。なお、統計を作成する場合に、誘導質問や言語上の虚偽をふくんだ質問 (多義、曖昧、強調、合成など) は論外です [ 専門家は勿論こんな初歩のあやまちを犯さないでしょうが、通俗的な アンケート の統計図は怪しい ]。
世の中の動向を知るには世論のような統計を知る事も大事ですが、しかし自分の意見を述べる事ほど大切な事はないと思うのです。「平均」 という ことば を我々は使いますが、そういう抽象的な数値に我々の判断は依存しているのではなくて、人並みな事しか云わない人でも、その人の具体的な魅力によって、その人が言った ことば を判断しているでしょう。その人並みな ことば には、その人の生きかたが言外に吐露されている筈です。そして、語られた ことば が その人の生きかたから発せられたのかどうかを判断して、我々はその人に惹かれたり、あるいは嫌悪を感じたりするでしょう。「統計」 として他人事の様に 「客観的」 に語る、そういう態度を私は呑気な bureaucracy 根性と思うのです。
(2014年 1月23日)