Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション fanaticism のなかで、以下の文が私を惹きました。
Defined in psychological term, a fanatic is a
man who consciously over-compensates a
secret doubt.
Aldous Huxley (1894-1964) British novelist.
Vulgarity in Literature. Ch. 4
You are never dedicated to something you
have complete confidence in. No one is
fanatically shouting that the sun is going to
rise tomorrow. They know it's going to rise
tomorrow. When people are fanatically
dedicated to political or religious faiths or any
other kind of dogmas or goals, it's always
because these dogmas or goals are in doubt.
Robert T. Pirsig (1928- ) US writer.
Zen and the Art of Motorcycle Maintenance. Pt. U, Ch. 13
Fanatic の語義は、1 a person filled with excessive enthusiasm for an extreme political or religious cause. 2 informal a person with an extreme enthusiasm for a pastime or hobby. (Pocket Oxford Dictionary)
私は、いかなる場合でも──酒を呑んで酔った人であれ、精神上で熱狂して酔った人であれ──酔った人に対して嫌悪を覚えます。その事では、私は興醒めな ヤツ かもしれない。勿論、私も幾つかの物事──例えば、文学・哲学や スポーツ 観戦など──に対して、それらに係わっている時には集中 (あるいは、熱中) していますが、酔い痴れるという事はない。アラン (哲学者) は、「酒に酩酊するなど動物じみた愚行と思うのは大間違いである。酩酊は節度をすごす一つの機会にすぎぬ。酩酊という言葉が、いろいろな意味をもっているのをみてもわかるが、酩酊とは、むしろ常に精神的なものだ」(注) と云っていますが、一時的であれ、酔って我を忘れるという事は 「はしたない (disgrace、vulgar)」 と私は思っています。
そういうふうに綴りながら、私は若い頃に酔って我を失った或る事態を忘れていました (苦笑)──それは恋愛です。確かに若い頃には恋愛に酔ったけれど、その後、二度と酔う事はなかった──それゆえに、その恋愛は、今でも、強烈な記憶 (熱く悲しい思い出) として蘇ります。或る政党、或る宗派への陶酔は、恋愛に似ているのかもしれない [ 私は政治上・宗教上のそういう体験がないので、推測でしか言えないのですが ]。政治の事はわからないけれど、宗教については、私は禅を信奉しているので、私の宗教観を言うなら、宗教は寧ろ酔う事を戒めているはずです──酔っては坐禅ができない。少なくとも、私が信奉している禅では、覚醒する (覚醒している) 事が宗旨です。
醒めていて──言い換えれば、逆上 (のぼ) せる事なしに──恋愛はできるだろうか。今の私はそれはできると断言できます。逆上せるかどうかは、恋愛 (関係) の特性ではなくて、それに関与している人物の性向ではないかしら。そして、人の気質というものは、様々な体験をして年齢とともに変わる──普通なら、老いていけば酔う事は次第に立ち消える (絶ち消える?) のですが、老いても逆上せる人がいるでしょうね。「老いて益々盛ん」 という言いかたがありますが、それは不自然だと私は思います。60歳代・70歳代の人々が30歳代・40歳代と同じ様な体力・気力を持久している事は、先ずもって無理でしょう──老人の悲劇は、老いている事ではなくて、「まだ若い」 と思う事にある様に私には思われます。還暦すぎの私は 「若い」 と云われた事があるのですが、そう言った人たちは皆 80歳代・90歳代の人々でした。彼らから見れば、私は確かに若い (笑)。
しかし、我々は、老いてゆくにつれて枯れてゆき、それ相応に振る舞う様になる。若い人たちの情熱は、老年においては悪徳です──様 (さま) にならない。元気な 60歳代の人たちの パワー を社会に役立てようという報道を テレビ 番組で観たのですが、なにかしら滑稽でした (そうしなければならないほどに若い人たちの パワー は小さいのかしら)。いずれにせよ、社会として関心を払うべきは若い人の生活であって、老いた人の生活ではないでしょうね。なぜなら、老いた人には未来が少ないから。30歳の頃には、体力・気力をつくる事ができるけれど、だが60歳にはそうはいかない。何事につけても酔う事のない初老の私は、それでも熱中する事 (仕事・趣味) を幾つかは続けたいと思う、そうしなければ、「今の若い ヤツ らは」 などと口幅ったい事を言いそうになるかもしれないので。或る意味では、酩酊する事は若い人の特権かもしれない。しかし、酔った若い人を大した人物などと私は決して思わない。
(注) 「精神と情熱とに関する八十一章」、小林秀雄 訳、東京創元社。
「第六部 道徳」 のなかの 「第二章 節制」 (200 ページ)。さらに次の文が続きます。
酒を慎んで節度を得ようとか、なにごとにつけても乱用を戒めて節制に至ろうとか考えるのは誤りで、それというのも物を見そこなっているからだ、人の気に入る物がそれほどこわいわけではない。ここに自然に服従するのはよいことだ、というあの半真理が顔を出す。だが、獣や子供に非常に容易なことが、僕らにとって容易とは限らぬ。(略) 真の過失は常になにものも信じないところにあるのだ。(略) だが自由な精神は、行きあたりばったりに酩酊することができる、だが、どうしてもまた酔わずにはいらぬほど酩酊に未練をもたぬものだ。
(2014年11月 1日)