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Fashions, after all, are only induced epidemics. (George Bernard Shaw)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション fashion のなかで、以下の文が私を惹きました。

    For an idea ever to be fashionable is ominous,
    since it must afterwards be always old-fashioned.

    George Santanaya (1863-1952) US philosopher.
    Winds of Doctrine, 'Modernism and Christianity

 
Ominous の意味は、suggesting that something bad is going to happen. 思想に流行 (はや) り廃 (すた) りがあるというのは変な話ですが、独自の着想と着実な論証をそなえた思想を真似して、世間に ウケ るように耳障りのいい (あるいは、刺激的な) 装飾を施した──しかも、装飾したがために、源泉の思想を改悪してしまった──亜流の意見などは、いずれ廃れるでしょう。装飾によって異を立て様とすれば、装飾の時代的好みによって流行り廃りがある。世間はそういう装飾を気の利いた意匠として一時的に振り向いても (摘み食いしたら)、やがて、他の気の利いた考えに目を移す。本物とは、地味なものではないかしら。その初見では、物足りない感じを与えるのではないかしら──だから、装飾を施す亜流が現れるのでしょうね。

考えかた (the way of thinking) を説く哲学は体系化できないのですが (たとえば、ウィトゲンシュタイン 氏の哲学)、およそ ひとつのまとまった考え (ここでは判断・推論による意識内容を言っていますが) というものは、矛盾が起こらない様な体系として組まれた言説となるでしょう。それは、数学の 「理論」 の考えかたを暗に守っているはずです──数学の理論では、理論がどのような公理を選ぶかは恣意的ですが、その理論が整合的であるためには、無矛盾性・独立性・完全性をそなえていなければならない。無矛盾性とは 「A かつ A でない」 となる様な論理式 A が存在しない事、独立性とは 任意の公理 A がそれが属する公理系の他の公理から導かれない事、完全性とは 任意の論理式 A に関して それが トートロジー (恒真、つねに正しい) ならば その体系のなかで証明可能である事。数学ほどの厳正さ (記号演算に依る無矛盾性) は、数学以外の思想にはもとめられていないけれども、それでも、ひとつの思想として値するならば、無矛盾性・独立性・完全性を できるかぎり守っていなければならないでしょう。そして、それらを守っていれば、論の筋道は (装飾の入る余地がない) 地味なものにならざるを得ない [ ただし、雄弁術 (口頭演説、プレゼンテーション) は、ここでは対象外としている事を念のために断っておきます ]。だから、「論理」 の訓練を専門的にうけていない人にとって、理論や思想は、面白みのない難しい──日常生活に有益とは思われない──説として思われがちです。しかも、理論・思想の結論は、至って単純な当然の 「事実」 を説いている。そして、それらをまとめた キーワード だけが世間に流通する──「マルクス 主義」、「実存主義」、「分析哲学」、「運動の法則」、「相対性理論」、「完全性定理」、「不完全性定理」 等々。私は、世間に普及している思想が──ウケ るのには、それなりの魅力があるとは思いますが──簡約されているが故に、必ずしも元の思想を正しく伝えているとは思っていない。

専門分野の理論を我々専門外の凡人が正しく把握しようとする事などできないし、そもそも、自分たちの仕事で手一杯なので、そんな事に時間を割く余裕などないでしょう。だから、それをわかりやすく咀嚼してくれる commentator が現れる。私は commentator を無用だとは思っていないし、一流の commentator は、思想家に準ずる才知をもっているはずです (翻訳についても、同じ事が言えるでしょう)。元の思想を損なわない様に注釈する才知は、それはそれで とても非凡ですが、三流の commentator は そこに自分の所懐を、意識的であれ無意識であれ、雑 (まじ) える。それを私は改悪だと言っているのです。

「古典」 とは、old-fashioned という意味ではなくて、長い時代にわたって規範とされてきて、今に至っても、その価値が低下しない作品を云うのでしょう。たとえば、小説に限って云えば、そこに描かれた社会風俗は当然ながら古い時代の (言い換えれば、現代には当てはまらない) 風俗ですが、それを材料として組み立てられた作者の 「思想」 は、今なお 旧 (ふる) くならない故に古典と云われているのでしょう。「表現法の新しさや或る芸術味などだけによって価値のあるものは、すべて速かに古臭くなる」 (A. フランス)。

 
 (2015年 1月 8日)

 

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