Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Flattery のなかで、次の文が私を惹きました。
I will praise any man that will praise me.
William Shakespeare (1564 - 1616) English dramatist.
Antony and Cleopatra, U:6
Flattery is all right so long as you don't inhale.
Adlai Stevenson (1900 - 65) US statesman.
Attrib.
お世辞の一つも言えないようでは、つきあい上、社会人 (おとな) として、生活の潤滑剤となる技能を欠いているでしょうね。しかし、私は、お世辞を ほとんど言わない。言わないなら言わないで通すことができるけれど、そうすれば 時には (特に若い頃には) 「高慢」 とか 「不躾」 という誹りを免れない。私は、見え見えの お世辞を聞いていると、(聞いている こちらが恥ずかしくなるというのではなくて、) 不快感を覚えるのです──そう感じている人々は多いのではないかしら? というのは、お世辞を言っている人の周りにいる人々が そういう表情をしている場面を観ることが多々あるので。私は、不快感を覚えても、それを表情に出すことをしないので、平然としているのですが、もし私が お世辞を言われたら、平然としていられるかというと、怪しい。そういうときには、たぶん、やや微笑んで、「ありがとうございます」 と言って、お世辞を聞き流すでしょうね。若い頃は、そうではなかったと思う──お世辞とわかっていながらも、心の中では、「相手は私のことを認めて褒めている」 と思って、舞い上がっていたでしょうね。私が お世辞に平然としていられる (あるいは、不快感を覚える) ようになった年齢は、40歳半ば頃です。その理由は、簡単です──私が TM (モデル 論・モデル 技術) を作ることに専念し始めたからです。
一事に専念していると、寝ても覚めても その事ばかり考えているので、私のことを どうこう言われるのが煩わしい。お世辞 (あるいは、批評 [ それが賛辞であれ非難であれ ]) などに対して、いちいち反応している余裕がないと云ったほうが正確かもしれない。たぶん、そうなるのは、学習対象 (モデル 論、数学基礎論) が数学者でない私の才知では そうとう難しいので──それでも、それを習得しなければ、TM を作ることができないので──、懸命に食らいついているからでしょう。喩えれば、荒馬に (騎手でもない) シロート が跨って振り落とされないように必死にしがみついている、という状態です。余裕などない。
余裕のない私が お世辞を聞いて不快感を覚えるのは致しかたないとしても、お世辞を非難することも大人げないとも思う。お世辞とは、相手に対して賛辞を多分に盛っている演戯だと思えば、そして二人の大人が お世辞とわかっていながらも会話の潤滑剤として交換していると思えば──お世辞を真にうけている間抜けが たまに居 (お) りますが──、(そういう見え見えの会話に対して不快感を覚えても) 平然としていられる。
(2017年 9月 1日)