Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Frankness のなかで、次の文が私を惹きました。
The great consolation in life is to say what one thinks.
Voltaire (Froncois-Marie Arouet: 1694-1778) French writer.
Letter, 1765
On an occasion of this kind it becomes more than
a moral duty to speak one's mind. It becomes a pleasure.
Oscar Wilde (1854-1900) Irish-born British dramatist.
The Importance of Being Earnest, U
Frank の意味は、candid, open, outspoken, undisguised, unmistakable です。引用文の 2つとも同じようなことを言っています──そして、私はそれらに共感します。私は、他の人々──初対面、あるいは つきあいの浅い人々──から どういう性質として見られているかといえば、たぶん、「open-minded」 とか 「outspoken」 という印象を持たれているでしょう、時には 「高慢」「我が儘」 と。私と つきあいが長い人たちは、その印象とは違って、人づきあいを嫌いな、どちらかと言えば、一人でいることが好きな・神経質な [ でも、楽天的な ]・温和しい ヤツ と見ているでしょう。いずれの印象も当たっています──そういう正反対な印象は、誰にでも当てはまるでしょう。というのは、標題に引用した孔子の言葉の云うように、「the rules of propriety (礼儀)」 が つきあい のなかで配慮されて、初対面や つきあい の浅い人々に対しては、裃を着た つきあい となるのは当然でしょうね。そういう配慮をしない人は、凡暗と云われても当然でしょう。「本音と建前」 を使い分けるのが立派な社会人 [ 成熟した大人 (おとな)] たる条件の一つでしょうね。そして、大人は、その ゲーム の ルール を承知のうえで、相手との距離感を測りながら、つきあっている。
60才をすぎれば、棺桶まで黙って持っていかなければならないような隠し立ては 2つ・3つくらいあるでしょう。そういう極秘はべつとして、どこまで本心を言うかは、相手との つきあい の親密度に依るでしょう。しかも、相手が個人か不特定多数かによって、開示する本心は違ってくるでしょう。私について言えば、仕事柄、どうしても不特定多数に向かって発信するので、相手が見えない [ つきあい の度合いが測れない ]。そういう制約の下でも、私は Twitter とか本 ホームページ の 「反 コンピュータ 的断章」 「反 文芸的断章」 で本心 (不特定多数に開示してもいい本音) を綴っています。
私の Twitter で次の文を かつて綴りました──「Twitter を綴る事、それは時間を潰すのに一番愉しい。自分宛の手紙を認 (したた) めている様なものだから。文を綴る事は思考を促し、思考は また文を調える。その適度な習慣は精神を慰め世間の喧騒から精神を回復するが、その過多な傾向は一人芝居となって逆に毒される」 (2017年 9月 2日) と。勿論、これは本心です。そして、この気持ちが Thematic Dictionary of Quotations の引用文に共感する理由です。SNS が普及してから、多くの人たちは、この恩恵 (自分の意見を発信すること) にあずかっているのではないかしら。
私は嘘を言うのが大嫌いです──他人に対しても、自分自身に対しても。そういう性質になった理由が はっきりと わからないのですが、たぶん、母方の祖母の影響だと思います。私は、普段でも、そうとう正直に言います──そういう straightforward な言動が、「the rules of propriety」 を やや越えているので、「わざと やっている」 と思われることが多いのですが、私と つきあい が長い人たちは 「マサミ さん らしいや」 と苦笑しているでしょう。本心を どうしても言いたくない時は、「意見 (発言) を控えます」 と私は言います。私が 「人格者」 だから嘘を言うのを嫌っている訳じゃない。祖母は 「人格者」 でしたが、私は つきあい上の余計なことを心のなかに溜めたくないから、そうしているだけです [ 私は自己中なのですw ]。
(2017年11月15日)