Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Freedom のなかで、次の文が私を惹きました。
It's often safer to be in chains than to be free.
Franz Kafka (1883-1924) Czech novelist.
The Trial, Ch. 8
Freedom is the right to tell people what they
do not want to hear.
George Orwell (Eric Blair; 1903-50) British novelist.
The Road to Wigan Pier
Man was born free and everywhere he in in chains.
Jean Jacques Rousseau (1712-78) French philosopher.
Du contrat social, Ch. 1
I disapprove of what you say, but I will defend
to the death your right to say it.
Voltaire (Francois-Marie Arouet; 1694-1778) French writer.
Attrib.
Freedom の セクション には 54篇の引用文が載っていましたが、私は上記の 4つを選びました── freedom という概念が日本人の私には実感として わかりにくいので、私にも比較的わかりやすいものを取りあげた次第です。「実感として わかりにくい」 という意味は、欧米の freedom は、民衆が戦って勝ち得たものなので、そういう歴史を持たない日本人には実感がともなわないという意味です。実際、Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations に記載されている引用文のいくつかは、私には (freedom を得るために戦った) 事情・気持ちが実感できなかった。
さて、(freedom を日本語の 「自由」 に翻訳して──ただし、freedom には 「解放」 という含意もあると思うので、「自由」 が freedom の概念に完全に一致するかどうかは私には心許ないのですが──)「自由」 とは、他人からの制約束縛の一切ない・自分自身の意思で振る舞うことができる状態 (自律性、自発性) という意味でしょうね。とすれば、どんな社会でも 「完全なる自由」 は存在しないと判断していいでしょうね。というのは、社会には、かならず、「the rule of propriety (礼儀)」 があって、否でも応でも、或る程度の制約束縛を我々は受けているので。「自由」 について論ずるときには、煎じ詰めると、自律性・自発性に対する制約束縛の程度 (加減) の問題になるのではないか?
亀井勝一郎氏は彼の著作 「西洋の知恵」 のなかで旧約聖書の 「出 エジプト 記」 について seminal な意見を述べていらっしゃるので、以下に引用します。
「我ら エジプト の地において肉の鍋の側 (そば) に坐り飽くまで
パン を食らひし時に、エホバ の手によりて死にたらば善 (よか)
りしものを、汝はこの曠野に我らを導き出してこの全会 (ぜんかい)
を飢えに死なしめんとするなり」(第十六章) これは イスラエル の
民が奴隷状態から脱しようとして苦難の最中に、その指導者 モーゼ
に向って放ったうらみの言葉である。ここに奴隷というものの本質
がある。たとえ自分では奴隷と思っていなくても、困難の回避に
よって何ものかに束縛されている方が楽だと思う人間の通有性
かもしれない。惰性の恐ろしさと云ってもよい。
エジプト の奴隷として強制労働に服していた イスラエル の民を モーゼ は率いて エジプト を脱出し、紅海を渡って新しい土地をもとめつつ彷徨っていた──私が中学生の頃、映画 「十戒」 を観て、海が割れる シーン の特撮に感動したことを覚えています。曠野を彷徨っていた民は、「自由」 になった開放感に浸って、酒池肉林の放縦な生活を送っていた。その状態を嘆き悩んだ モーゼ は独り シナイ 山に入る、そして神から十戒が下される。旧約聖書の最高潮の場面です。私は、今でも、この場面を思い出すと感動が蘇る。しかし、悲しいかな、私の その感動は長続きしないで、いつの間にか忘れてしまう。モーゼ に導かれた民も 「自由」 を手にしたときは歓喜したけれども、一時 (いっとき) すぎれば、奴隷のほうが善かったと不満をもらす──It's often safer to be in chains than to be free。
「出 エジプト 記」 を読んだときに、私は芥川龍之介氏の次のことばを思い出しました──「自由は山巓 (さんてん) の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない」(「侏儒の言葉」)。少数の天才を除いて、我々凡人には、亀井勝一郎氏が述べているように、「自由」であることが堪えがたいのでしょう。そして、芥川龍之介氏は次のようにも言っています──「自由主義、自由恋愛、自由貿易、──どの 『自由』 も生憎 (あいにく) 杯の中に多量の水を混じている。しかも大抵はたまり水を」(「侏儒の言葉」)。この 「水」 というのが 「(社会の) 制約束縛」 のことでしょう、そして 「たまり水」 というのは その制約束縛が 「(旧態然とした) 惰性 (あるいは、stereotype)」 でしょうね。それを思い違いして自由主義・自由恋愛・自由貿易などと云っているという やや皮肉を込めているのでしょうね。
Voltiare 氏の ことば (I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.) を読んで思い出した話。或る式典に、自衛隊の人と自衛隊反対の人が出席していた。自衛隊反対の人が 「自衛隊は憲法違反だから云々」 というふうに非難していた。その人の発言がおわってから自衛隊員は次のように言いました──「そういう人も守るのが自衛隊です」 と。
(2017年12月 1日)