Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Funerals のなかで、次の文が私を惹きました。
Why should I go? She won't be there.
Arthur Miller (1915- ) US dramatist.
When asked if he would attend Marilyn Monroe's funeral
Attrib.
年明けの 「反 コンピュータ 的断章」 が funeral ではじまるというのは不瑞 (ふずい) ですが、意図的に そうした訳ではないのであって、Thematic Dictionary of Quotations の セクション 順に従っていたら、たまたま そうなったというだけのことです。他意はないです。
さて、引用文。Authur Miller 氏の ことば は、粋 (いき) ですね── She IS in my mind. ということが暗示されている。私は初老 (64才) になりましたが、自分の葬式を考えるような年齢ではない (男の平均寿命が 80才くらいだから、75才すぎたら、そろそろ身辺整理しなければならないかもしれない)。故人のなかで (親族は除いて) He/She is in my mind. という人たちは、私には 4人います──私の両親くらいの年長者で家族ぐるみの つきあい をしていた人が 2人、ほぼ同年代の友人が 2人です (友人たちは、30才代・40才代の若い頃に他界しました)。彼ら 4人との交際を今でも生々しく思い起こすことができる。彼らと交際していたときには、後々に私の心に強い思い出としてのこるとは思ってもいなかった。彼らが居なくなって私の生活のなかに占めていた大きさがわかった。
私が もし今 他界して、私が つきあっている人たちに対して果たして存在感をのこすことができるかしら、、、それほど私は彼らに対して いいことをしてきたかしら。私が迷惑を掛けてきたことなら、たくさん列挙できる──私が為したことを彼らが苦笑しながらも見守り見逃してくれたのを私自身が数多 (あまた) 見てきたから。芥川龍之介の次の ことば を初老の私は身にしみてわかる──
わたしは勿論失敗だった。が、わたしを造り出したものは必ず又誰か
を作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に
過ぎない。無数の種子を宿している、大きな地面が存在する限りは。
64才という年齢は昭和初期には寿命だったけれど、平均寿命が 80才をこえた今では、人生を振り返るような年齢でもないし、私は まだまだ やりたいことが たくさんある。そして、私は、今後も──死ぬまで──周りの人たちに迷惑を掛け続けるでしょうね (苦笑)。
「死」 について考えてみても、それは観念でしかないでしょう (体験できる訳ではない)。そうであれば、「死」 は生きるための条件であるとだけ思っていたほうがいいのかもしれない。私の好きな俳句──
やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
旅に病み夢は枯れ野をかけ廻 (めぐ) る
いずれの句も芭蕉の句です──「生と死」 の鮮明な対比ですね。そういうふうに私の残りの人生を送りたい。そして、私の葬式──家族葬、棺桶のなかには 「正法眼蔵」 を収めて欲しい。葬儀のときに流す音楽は、モーツァルト の 「鎮魂歌」 (あるいは、ショパン の夜想曲 第20番)。我が儘だった私は、確かに地獄に堕ちるでしょう。できれば、山の中の森林で命を絶えたい。
(2018年 1月 1日)