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The future / you shall know when it has come; before then, forget it. (Aeschylus)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Future のなかで、次の文が私を惹きました。

    I never think of the future. It comes soon enough.

    Albert Einstein (1879-1955) German-born US physicist.
    Interview, 1930

 
    The future is made of the same stuff as the present.

    Simone Weil (1909-43) French philosopher.
    On Science, Necessity, and hte Love of God (ed. Rechard Rees),
    'Some Thoughts on the Love of God'

 
 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Future の quotations が 8篇しか記載されていなかったのは意外でした──Future に関しては、多数の quotations が記載されていると思っていたのですが、、、(Food については、50篇も記載されていたのに!)。

 私の年齢 (64才) になれば、新たな進路を期待する・成長の可能性のある 「未来」 というのは望むべくもない。その意味では、引用文の 2番目 (Simone Weil 氏の ことば) は実感としてわかる。現在と懸け離れた未来というのは (空想に浸って現実離れの夢をみない限り) 想像できない。逆に言えば、現在というのは、当然ながら過去の堆積 (延長) したものでしょう。なぜなら、時間は断絶しないから。そして、我々の生活とは時間の上での運動だから。そう考えれば、現在の私は、過去の私のなかに種子を宿していたと思量せざるを得ない。とすれば、現在の私は、当然ながら未来の私を含意している。勿論、私の生活が時間の上での運動である限りにおいて、私を取り巻く環境条件の影響を避けられないし、その環境条件を考慮したうえでの過去の、そして現在の私のことを言っています。自分を変えるには、環境を変えるのが一番手っ取り早いのではないかしら。しかし、老年ともなれば、それが億劫です。

 私は、自分の未来を考えたとき、「今の仕事」 をできるだけ続けたいと思う。少なくとも 70才 (今から 6年後) まで 「今の仕事」 を続けている自分を思い描くことはできるのですが、80才 (今から 16年後) の時点での自分を想像できない。現在の自分から 5年ほどの自分は或る程度具体的に思い描くことはできるのだけれど、現時点から 10年を越えると全然想像できない。10年後は、あくまで、「目標」 でしかない。私は、自分の過去を振り返って、10年後の自分というものを考えてみたことがあったかしら。それは、なかったように思う。常に 3年ぐらいを射程範囲に置いていたようです──過去を振り返ってみれば、私は、どうやら未来というものを考えて (想像して) こなかったようです。その理由は、たぶん、今の前提条件と 10年後の前提条件が当然ながら変わるからだと思う。

 そして、現在の私は、、、── 18才のときの私と同じような思考傾向・生活習慣を有している。勿論、18才のときから半世紀弱たった今の私は、知識・経験を積んでいるので、18才のときに比べて、成長しているのは確かなのですが、私の根柢の特性は変わっていないように感じています。環境条件が 今後 劇的に変わらない限りは──環境条件が劇的に変わる可能性は、ほとんど ないので──、おそらく、私の性質・生活は今後も (3年ほどは) 変わらないでしょうね。私は自分の生活を振り返って感想を述べたのですが、たぶん、多くの人たちも同じような感想を抱くのではないかしら。

 若い人が自らの未来を語るのを聴いていて、私は うらやましく思う。彼らが天才でない限り、彼らも劇的な人生を送るはずはないのですが、どうして私は彼らを うらやむのかしら、、、。彼らの溌剌とした生命力と可能性ある未来に対して、うらやんでいるのかしら。それとも、私は自らの人生を振り返って悔恨を感じているので、彼らの今後の人生 [ 可能性 ] に対する嫉妬かしら。しかし、いっぽうでは、若い人たちのように、未知な事に好奇心を常に抱いていたいと私は思っています。円熟してゆくことに憧れつつも、それを嫌う性向が私にはあるようです。「かたちを恥づる心もなく、人にいでまじらはむ事を思ひ」 (徒然草)、そんな見苦しい体裁を他人から苦笑されようが、私は若い人たちと常につきあいながら学んでいたい。

 私は、本業の傍ら、介護施設で 5年 3ヶ月のあいだ パート 職として働きました。施設では、60才を越えた私が 「若い」 と言われた──入居者は、80才代の人たちが多かった [ 100才の女性で難聴のほかは全然健康 (認知症もない、歩行ができ身体介助もいらない) という人もいました ]。還暦すぎて 「若い」 と言われるとは思ってもいなかった。私が 80才を越えたとき、仕事を離れて隠居することに堪えられるか。私の性質から判断して、それは堪えられないように思う──死ぬ 1秒前まで仕事のことを考えていたい。長生きはしたいが、年を取りたくないと虫のいいことを思っているのかもしれない。

 私は還暦を越えているが、40才の頃と比べて肉体的に衰えたとは思っていない。勿論、20才のときに比べれば、体力は落ちている。私が比較している年齢は、仕事で脂がのりきっている 40才のときの私です。40才では、体力と意識の ズレ があった──当時、意識では 「まだまだ若い」 と思っていたのですが、走ってみれば体力が 20才代の頃に比べて落ちているのは一目瞭然でした。20才代と同じように走ることができると思っていたのですが、走っていて思うように足が前に出ないで足がもつれて転倒してしまいました。いっぽうで、徹夜には 60才を越えた今も強い (平気です)。

 しかし、体力的な老化は誰もが避けられない。体力的な老化をできるだけおそくするために運動しているのですが、外見の容姿は、白髪になって禿げてきて、肌に張りがなくなって、頬が弛んで落ちてきた。そのうち、外見だけでなく、意識も次第に鈍 (なま) ってくるでしょうね。64才の未来は、若い人の未来に比べて、上昇することは期待できない。でも、いっぽうで (現実的ではないことは百も承知なのですが、)死に向かって次第に充実してゆくことができないかなとも思う。

 私は、50才を越えたときに、思考力が落ちたと一時感じたことがありましたが、今はそう思っていない。寧ろ、思考力が炸裂している。しかし、思考力が落ちてきたことを実感したとき、私は私自身を戸惑い愕然となるでしょうね。自分の思考力が落ちてきたことを目の当たりにすることは、きっと遣り切れないでしょう。10年後に本 ホームページ の 「反 コンピュータ 的断章」 で 私は何を如何に綴っているかしら、、、それは自分自身の未来に対する ひとつの楽しみです。

 
 (2018年 2月 1日)

 

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