Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Genius のなかで、次の文が私を惹きました。
True genius walks along a line, and, perhaps,
our greatest pleasure is in seeing it so often
near falling, without being ever actually down.
Oliver Goldsmith (1728-74) Irish-born British writer.
The Bee, 'The Characteristics of Greatness'
The true genius is a mind of large general
powers, accidentally determined to some
particular direction.
Samuel Johnson (1709-84) British lexicographer.
Lives of the English Poets, 'Cowley'
A genius! For thirty-seven years I've practiced
fourteen hours a day, and now they call me
a genius!
Pablo Sarasate (1844-1908) Spanish violinist and composer.
On being hailed as a genius by a critic
Attrib.
天才という言葉は、現代では インフレーション を起こしているようですね──ちょっと才気があって目立てば、天才とか カリスマ と云う風潮です。天才とは、モーツァルト、ドストエフスキー、ウィトゲンシュタイン、ゲーデル、アインシュタイン などような才力を云うのだと私は思います。
さて、引用文の一番目、天才には危うさが漂っていることを云っています。彼らは崖っぷちまで歩いて行って (もう一歩ふみだせば奈落におちるのに) 落ちそうで落ちない──我々凡人はそれを観るのが最高に愉しい、と。三島由紀夫氏は [ 彼も天才の一人ですが ] 彼の著作 「小説家の休暇」 のなかで次の文を綴っています──
音楽愛好家たちが、かうした形のない暗黒に対する作曲家の
精神の勝利を簡明に信じ、安心してその勝利に身をゆだね、
喝采してゐる点では、檻のなかの猛獣の演技に拍手を送る
サーカス の観客とかはりがない。しかしもし檻が破れたら
どうするのだ。勝つてゐるとみえた精神がもし敗北してゐた
としたら、どうすのだ。音楽会の客と、サーカス の客との
相違は、後者が万が一にも檻の破られる危険を考へても
みないところにある。
三島由紀夫氏が指摘するように、我々凡人が天才に対する俗な愉しみかたでしょう。先に挙げた天才たちは、いずれもそういう危うい才気 [ 悲劇性 ] を薫じている。だから、我々は彼らに惹かれる、たとえ彼らの作品・学説を詳細に知らなくても。これについて、引用文の二番目にも関連するのですが、小林秀雄氏は次の名言を綴っています──
私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を解しない。
解する必要を認めない。実生活で間が抜けていて、詩では一ぱし
人生が歌えるなどという詩人は、詩人でもなんでもない。詩みたい
なものを書く単なる馬鹿だ。
引用文の三番目について、天才とは 「努力」 の帰結であるということを サラ・サーテ の言を借りてここで述べるつもりは私には更々ない。芸術家・科学者・哲学者・数学者になって努力しない人などいないでしょう──それは我々凡人の仕事でも同じで、いったん、仕事として選んだ事には尽力するのが当然です (尽力しないのは論外です)。尽力している人たちのなかから僅かの天才が現れる。
では、天才となる特質とは何か──それがわかったら、私は天才になっていたでしょう (笑)。才気走って着想が次々に浮かべば 「天才肌」 だと他人に言われて、いい気になって自惚れる──そういう若い人たちを私は幾人か観てきましたが、或る程度の高慢は天才に付きものだとしても、才気や着想だけで天才になった人はいない。「夭折の天才」 という言いかたがあるけれど、夭折であっても実績は必ず遺している──たとえば、アーベル とか。天才とは実績に付与された呼称です。天才というのは、社会に与える影響度を考えれば、百年ほどたってみなければわからないでしょう。そして、天才は、時代の通念を変える epoch-making (新時代を画する) な不世出の才のことでしょうね──今までの時代を閉じ、新たな時代を開く才力でしょう。
(2018年 3月 1日)