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How unhappy is he who cannot forgive himself. (Publilius Syrus)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Guilt の中で、次の文が私を惹きました。

    It is quite gratifying to feel guilty if you
    haven't done anything wrong: how noble!
    Whereas it is rather hard and certainly
    depressing to admit guilt and to repent.

    Hannah Arendt (1906-75) German-born US philosopher
    and historian.
    Eichmann in Jerusalem, Ch. 15

 
 こういう文について意見を述べるのは難しい、、、というのは、私は Hannah Arendt 氏の書物を読んだことがないし (この引用文は彼女の著作 Eichmann in Jerusalem からの抜萃です)、彼女が扱っている この テーマ が ナチス に係わることなので、私の意見を述べるにしても随想としては重すぎる。Eichmann (アイヒマン、Karl Adolf Eichmann) は ナチス の幹部であり、強制収容所での ユダヤ 人撲滅作戦を指揮して、戦争後に罪に問われ [ 罪状は、ユダヤ 人に対する罪、人道に対する罪、戦争に対する罪で ]、Jerusalem (エルサレム) で絞首刑に処せられた人物です。

 私は 30歳代の頃から ナチス の強制収容所 (concentration camps) をついて多数の書物を集めて調べてきました (本 ホームページ 「読書案内」 を参照してください)。ナチス の強制収容所については、いずれ まとめてみたいと思いますが、ここでは Eichmann のことを離れて、私自身のこととして考えてみます。

 「何も悪いことをしていないのに罪意識を感じる」 とは、どういう状態なのか、、、どうも 私には そういう気質があるようです。Hannah Arendt 氏は、それを How noble と言っていますが、私に関して言えば、そんな立派なもんじゃない。「原罪」 を意識しているという訳でもない──私は キリスト 教徒ではないので、「原罪」 を意識したことはない。そういう気質は高校生の頃から感じていました。そして、それが私を文学や宗教 (禅) に導いたのかもしれない。「文学青年」 の多くは、そういう気質をもっているのではないかしら。

 そういう気質は どうして形成されたのか、、、たぶん、祖母 (母方) の影響かもしれない。私は、いわゆる 「おばあちゃん子」 でした。私は昭和 28年 (1953年) に半農半漁の村で生まれました──「佐藤」 の本家の長男として生まれたので、祖父母が溺愛したそうです。今 この文を綴っていて、祖母の思い出が数々巡ってくる──信心深い祖母でした。祖母に溺愛された長男が (良く言えば) 「心優しい」 (悪く言えば)「軟弱で意気地なし」 になる傾向は世間一般に見られるでしょう。私もご多分に漏れず そう育ちました。祖母は私が小学生の頃に亡くなりましたが、祖母が小児の私に与えた影響は大きかったと思います。

 しかし、自我が目覚める年頃までは、言いしれぬ罪意識に襲われることはないでしょうね。自我が目覚める高校生の頃に、私に決定的影響を与えたのは、小説家の有島武郎氏です。私は、彼の作品を今でも愛読しています。私の気質にあった有島武郎氏を読むようになったのか、それとも有島武郎氏が私に多大な影響を与えたのか、、、たぶん、その両方が重なったのだと思う。いずれにしても、「何も悪いことをしていないのに罪意識を感じる」 という私の気質の源泉は、今振り返って、祖母に育成された小児の気質が高校生の頃に読み始めた有島武郎氏と呼応した処にあるのかもしれない。

 勿論、高校生の頃と今の私 (今月で 65歳) は、社会のなかで生活してきて性質も変わってきているでしょう。しかし、もし私が性格破綻者となったとしても──幼い頃に形成されて、その後の人生のなかで獲得された その気質の周りに身に纏った後天的性質が破綻したとしても──、生得的気質 [ 遺伝的・生物的に近い幼い頃の原体験のなかで形成された気質 ] は そうやすやすとは変わると思えない。

 
 (2018年 6月 1日)

 

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