< anti-computer-20180701
  このウインドウを閉じる

I'm not really a Jew; just Jew-ish, not the whole hog. (Janathan Miller)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Half Measures の中で、次の文が私を惹きました。

    Two half-truths do not make a truth, and
    two half-cultures do not make a culture.

    Arthur Koestler (1905-83) Hungarian-born British writer.
    and historian.
    The Ghost in the Machine, Preface

 
 継ぎ接ぎ (patched-together) は、所詮 継ぎ接ぎにすぎない。複数の思想から良い箇所を それぞれ抜き取って、それらの断片的思想をつなぎあわせたとしても、一つの思想にはならないでしょう。そういうふうにして書かれた論文は、「糊とハサミで切り貼りした」 論文 (a patched-together essay) であると蔑まれる。他人の思想から抜き取った断片的思想は 「材料」 であって、それらの 「材料」 を縫いあわせる統一された 「視点 (自分の視点)」 (あるいは、土台となる原則) がなければならないでしょう。意見の背骨となる一貫性といってもいい。システム・エンジニア が システム を説明するときに使う ことば で言えば、「或る目的を実現するために、それぞれの モジュール が有機的に統一された」 状態になっていなければならない。では、一貫性とか 「有機的に統一された」 状態は、どのようにして成されるのか、、、「思想」 に限って言えば、それは その人の人生観 [ 生きかた ] でしょうね。

 我々は自分の人生観を顕然と述べることができるか、、、無理でしょう。もし、誰かが私に対して 「あなたの人生観は どのようなものか」 と問うたら、私は考え込んでしまうでしょうね。その問いが漠然としていて応えられないのではなくて、私の人生を私自身が日々継続的に考えてはいないので、ことば に窮するでしょう。はたして、自分の人生を まいにち (そうでないとしても、一年のなかで幾度も) 考えている人などいるかしら ──ただし、文学者や哲学者は除きます、そういうことを考えるのが彼らの仕事ですから。私が敬愛する文芸批評家の亀井勝一郎氏・小林秀雄氏は、それぞれ 「私の人生観」 という著作を公にしていらっしゃいます。

 でも、「私らしさ (個性)」──他の人が取って代わることのできない私──は、歴然と存する。私の骨格構造・筋肉構造・内蔵構造は、生物学的に きっと 他の人たちと同じでしょうが、性質については誰一人として同じでない。世間には私と似た性質の人がいても私と同じ性質の人は私のほかにはいない。しかも、私の性質は切り出して他人に見せることはできない。でも、私の性質は歴然と存する。

 私の身体の構造を図式化して説明することはできるでしょう──寧ろ、そのほうが構造がわかりやすくなるでしょう。しかし、私の性質を図式化することはできない──「優しい」 「神経質」 などという概念の論理和が私の 「本質」 であるなど考えるなど噴飯ものでしょう。性質の様々な状態に対して、確固たる境界線を引くことなどできやしない──いくつかの部分的状態が継ぎ接ぎされて性質ができてきる訳じゃない、質も量も計測することができない。渾然一体となっているものとしか言いようがない。或る人の性質が或る程度わかるというには、その人をわかってくるというまでに長く つきあわなければならない。

 ところが、そういう人間的性質を機械的機能に代置したがる人々がいる。これは、身体的構造を機械的機能に代置することとは違う。いくつかの性質を ベン・オイラー 図式で描いて、それらの論理和を 「幸せ (充実感)」 の定義としているような くだらない評釈 を SNS で見たことがあるが、その図を描いた人自身が図説 bot になっているのではないかと私は苦笑しました。そういうのは科学でも何でもない。しかも厄介なのは、ご本人は人間性をわかっているという自信で 人間性の 「本質」 を説いてきかせていると思い込んでいるという点です。

 
 (2018年 7月 1日)

 

  このウインドウを閉じる