Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション History の中で、次の文が私を惹きました。
Man is a hitory-making creature who can
neither repeat his past nor leave it behind.
W. H. Auden (1907-73) British poet.
The Dyer's Hand, 'D. H. Lawrence'
History is the essence of innumerable biographies.
Thomas Carlyle (1795-1881) Scottish historian and essayist.
Critical and Miscellaneous Essays, 'History'
No great man lives in vain. The history of
the world is but the biography of great men.
Thomas Carlyle
Heros and Hero-Worship, 'The Hero as Divinity'
History never looks like history when you
are living through it. It always looks
confusing and messy, and it always feels
uncomfortable.
John W. Gardner (1912- ) US writer.
No Easy Vitories
It is impossible to write ancient history
because we do not have enough sources, and
impossible to write modern history because
we have far too many.
Charles Pierre Peguy (1873-1914) French writer.
Clio
「歴史」 という ことば を聞けば、真っ先に思い出すのが学校で習った 「歴史」 でしょう。私は、高校生の頃、日本史が好きでした。ただ、40歳をすぎた頃から (日本史に較べて) 「民俗学」 のほうに惹かれるようになりました。その理由は、学校で教わった 「歴史」 には、社会に多大な影響を与えた偉人たちの業績が 「オッカム の剃刀 (節減の原理)」 宜しく整然とした因果関係のなかで体系的に記述されていて、その記述を読んでも生々しい 「人間像 (人間模様)」 (あるいは、生活感) が見えないからです。ただ、高校生の頃に日本史が好きだった理由は、それぞれの出来事が 「原因-結果」 の連鎖によって数珠つなぎに進展して行く様 (さま) が一連の運動を観ているようで愉しかったからです。
勿論、このことは、「学校の教科」 (指導要綱に沿った学習) であるが故のことで──すなわち、個々の歴史的出来事の関係が高階 (high level) の クラス 概念 [ type ] で汎化されて 「通論」 として体系化されているが故で──、歴史の専門家が史料を丁寧に (正確に) 読んで過去の出来事 (事実) を調べることとは違うのは私とて承知しています。いっぽう、「人間像」 を重視した読み物が 「歴史小説」 でしょうね。ただし、「歴史小説」 には、作家の憶測・想像が多大に盛り込まれているので、その読み物を たとえ実録とは称しても間違いなく フィクション でしょう。
史料の真偽を判断しながら、真とされる 「事実」 を列挙すれば [ 年表を作成すれば ] 「歴史」 になるのか、、、個々の出来事はそれ自体では 「意味」 をなさないので、他の出来事との 「関係」 のなかで その存在を認められるでしょう──すなわち、世の中のすべての モノ が運動のなかにあり、出来事の作用 (機能) という事が、同時に その存在という事を意味する──というのが科学的証明の前提であれば、「事実」 の列挙だけでは学問としての 「歴史」 にはならないので、それらの 「事実」 のあいだの関係を策定しなければならない。そして、その策定には、「視点 (『解釈』 としての意味論 [ 歴史観 ])」 が必ず軸となる。そこに 「事実」 に対する歴史家の推測 (憶測) が混入する余地があるでしょう。
その歴史家の推測の是非が 「歴史と文学」 という微妙な問題を起こす。私が敬愛する亀井勝一郎氏 (批評家) は、「現代歴史家への疑問」 という エッセー を発表して (「文芸春秋」 誌に掲載)、 歴史家の遠山茂樹氏・和歌森太郎氏らと いわゆる 「昭和史論争」 を起こしました。ちなみに、私は (亀井勝一郎氏を敬愛しているいっぽうで) 遠山茂樹氏・和歌森太郎氏も尊敬しています。
芥川龍之介氏の作品 「西郷隆盛」 は 「歴史 (史料) と文学」 について面白い所思を述べています、短編なので一読してみてください (「青空文庫」 から ダウンロード できます)。
私は、今、過去の新聞記事 (朝日新聞の縮刷版) を読んでいます──「重要紙面でみる朝日新聞 90年 (1879-1969)」 (朝日新聞社) および 「朝日新聞に見る日本の歩み」(昭和元年〜昭和 47年、20冊、朝日新聞社)。私は、この新聞社を大嫌いなのですが、テレビ 放送がなかった頃 (昭和 28年以前) の世相を調べるには新聞報道が手頃です。勿論、新聞記事をそのまま鵜呑みにしないで批判的に読んでいます。そして、YouTube には、貴重な歴史的映像が多数 アップロード されているので、それらも観ています。私は、歴史家ではないので [ システム・エンジニア です ]、興味本位に新聞を読み YouTube の映像を観ているにすぎない。
新聞記事のような出来事の断片的な報道では、それぞれの出来事のあいだに成り立つと考えられる関係も私のような歴史学の シロート には読み取ることもできない。それでも、出来事が報道されたときの社会の反応は、紙上で いくぶんかは わかる。さらに、現代から観れば、記事のなかには、ずいぶんと いいかげんな記述 (あるいは、誤った報道) も散見されます。新聞記事を批判的に読むのが私には愉しい──ちなみに、新聞に掲載されている 「広告」 を読むのも とても愉しい。
私は、日頃、新聞を読まないのですが [ ただし、スマホ の アプリ SmartNews で ニュース を ザッと読んでいますが ]、「過去の」 新聞を読んでいると色々と考えさせられることが多い。まいにち報道される個々の出来事が堆積されて 「歴史」 となるのですが、我々 シロート は、日々の新聞報道で知った出来事を身近な事としては感じていないのではないかしら。たとえ その出来事が自分の生活に対して影響を与える事態であるとしても、その出来事と自分のあいだには なにかしら 「心理的距離」 があるようです。その理由は、たぶん、出来事に関して判断を下すには報道記事は出来事の詳細 [ 構成条件、環境条件 ] を欠落しているからではないか。そして、その欠落を記者の生半可な憶測でもって補おうとしている記事を読んで、私は とても不快になる──事業分析・データ 設計の モデル 作成を仕事にしている文学青年的 システム・エンジニア (私) は、不出来な ストーリー を目にすると黙っていられない性分なので (笑)。
報道は、5W 1H の六原則を守らなければならないと云われていますが、When・Where・Who・What は 当然 明らかにしなければならないけれど、Why と How は報道する人の推測 (憶測) を避けられないのではないかしら。ここで前述した問題 (「解釈」 という意味論) が這入る。「科学を除いてすべての人間の思想は文学に過ぎぬ。現実から立ち登る朦朧 (もうろう) たる可能性の煙に咽 (む) せ返る様々な人の表情に過ぎない」(小林秀雄、「Xへの手紙」)──小林秀雄氏の この ことば に私は与します。
(2018年10月15日)