Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Home の中で、次の文が私を惹きました。
In fact there was but one thing wrong with
the Rabbitt house; it was not a home.
Sinclair Lewis (1885-1951) US novelist.
Rabbitt, Ch. 2
A man travels the world over in search of
what he needs and returns home to find it.
George Moore (1852-1933) Irish writer and critic.
The Brook Kerith, Ch. 11
House の意味は、a building for people to live in で、home の意味は the place where one lives です (Pocket Oxford Dictionary)──つまり、house は入れ物 (建物) で、home は 場所 (抽象的な空間) ということですね。
さて、私は、house として集合住宅の一つの アパートメント に住んでいます、そして そこが home です。一日の ほとんどは書斎に居て、書斎で読書・思索・執筆をして、その生活空間が とても快適です。
ただし、「快適」 という意味は、部屋が綺麗に整理整頓されているということではないのであって、他の人が私の部屋を見れば、たぶん乱雑だと言うでしょうね (苦笑)。しかし、私にとっては、長年 生活してきて、然るべき場所に然るべき物が置いてあるという 「秩序」 が整っている。かつて読んだ書物のなかで、私の記憶が曖昧なのですが、夏目漱石の外出中に家政婦が彼の書斎を綺麗に片付けたら、帰宅した夏目漱石が怒ったそうです、彼は 「無秩序の秩序」 と怒鳴ったとか、、、。私には その気持ちがわかる。
拙宅に隣接する マンション [ 拙宅の入っている建物と道路を挟んで隣接する マンション ] の一室 (3DK) を私は書斎用として借りています。その賃借料は高いので、貧乏な私は極貧状態です。読書好きな私は書物を 多数 所蔵しています (一般の読書子として蔵書が多い [ 1,000冊くらい ] ということであって、研究者の蔵書に比べれば 勿論 少ない)。賃借料が重荷になるのなら、それらの書物を所蔵しないで、図書館で借りればいいではないかと思われますが、私は書物のなかに書き込みをするので、「自分用」 でなければならないのです。そして、敬愛する作家・学者の著作が手許に置いてあるという状態は私に安らぎを与えてくれる。しかも、私が所蔵している書物のほとんどが、電子書籍として出版されていない。
引用文の二番目を読んだとき、小椋佳さんの歌 「木戸をあけて」 が私の頭に浮かびました──私が大学生だった頃、さかんに口ずさんだ歌です。家庭を出て旅立つ [ 独りだちする ] 青年の心情を哀愁と情熱とが混ざりあった音調の曲です。1970年代の青年たちの多くが感じていた心情ではないかしら。
そういえば、昭和43年 (1968年)、「東大紛争」 のときに駒場祭 ポスター の キャッチコピー 「止めてくれるな おっかさん、背中の銀杏が泣いている、男東大どこへ行く」 が学生たちのあいだで有名でしたね (私は高校生でした)。
閑話休題。「木戸をあけて」 の歌詞の一部──「帰るその日までに 僕の胸のなかに 語り切れない実りが たとえ あなたに見えなくとも 僕の遠い憧れ 遠い旅は捨てられない」 と。歌詞中の 「あなた」 は、「母」 のことです。歌詞の順序が前後するけれど、もう一つ──「許してくれるだろうか 僕の若いわがままを わかってくれるだろうか 僕の遙かな彷徨いを ウラの木戸を開けて いつか 疲れ果てて あなたの甘い胸元へ きっと 戻りつくだろう 僕の遠い憧れ 遠い旅が終わるときに」 と。長い彷徨いの果てに戻る場所は、やっぱり母 (家庭) なのですね、、、。
私の好きな作家 三島由紀夫氏は、エッセー 「裸体と衣裳」 を以下の文で締めくくっています。
...オンボロ 貨物船を引きずつて、船長は曲りなりにも故郷の港
に還つて来た。主観的にはずゐぶん永い航海だつた。(略) 暫時
の休息ののち、船長は又性懲りもなく、新しい航海のための食糧
や備品の買出しに出かけるだらう。もつと巨きく、もつと性能も
よい船を任される申し出によし出会つても、彼はすげなく拒むだらう。
彼はこの オンボロ 貨物船を以てでなくては、自分の航海の量と
質とをはかることができないからである。それだけがあらゆる船
乗りの誇りの根拠だ。
文中 「故郷の港」 を home と読み替えてもいいでしょう。私は、この文に対して──いかなる センチメンタル な気分を抜きにして──百 パーセント 同感できます。そして、航海 (旅) を幾たびも くり返して、人生の最期に私が今際の際で思い浮かべるのは、ひょっとしたら、子どもの頃の家庭の光景かもしれない。私は 65歳です。晩年になってはじめて、家 (home) の有り難みがわかってくるようです。Home というのは、その場所を熟知して (familiar with or accustomed to) 安らぎ (comfortable and at ease) を感じられるということでしょうね。だから、建物 (house) だけではなくて、国家・地域社会・母校や仕事なども home となりえるでしょう。
(2018年11月15日)