Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Idealism の中で、次の文が私を惹きました。
If a man hasn't discovered something that he
would die for, he isn't fit to live.
Martin Luther King (1929-68) US Black civil-rights
leader.
Speech, Detroit, 23 June, 1963
An idealist is one who, on noticing that a
rose smells better than a cabbage, concludes
that it will also make better soup.
H. L. Mencken (1880-1956) US journalist.
St Mawr
A radical is a man with both feet firmly
planted in the air.
Franklin D. Roosevelt (1882-1945) US democratic
president.
Broadcast, 26 Oct 1939
引用文の一番目は、キング 牧師 (人種差別撤廃 運動家) の言葉です──「(人生において) 身命を犠牲にするほどの何かを発見できないような男は生きるに値しない」 という意味かな? 烈しい言葉ですね、キング 牧師だから言える言葉です。実際、彼は命を賭けて黒人のために公民権運動を指導した リーダ でした。Idealism の手本でしょう。しかし、我々凡人の生活では そういう機会 [ キング 牧師が身を置いていた動乱の社会情勢 ] は先ず有り得ないし、他人 [ 友人、知人、同僚など ] から もし 「命を賭けるような仕事を持て!」 と言われたら 「オマエ に言われたくはないわ、逆上 (のぼ) せやがって」 というふうに応 (こた) えるでしょう (少なくとも私はそう言うでしょう、たぶん)。
凡夫の私とて不正を見れば憤りを感じる、そして 時と場合によっては不正を正すために なんらかの行動するでしょう。私の行動は小さいかもしれないけれど、思いを同じくする多数の人たちが集まれば一つの大きな声になる。自分のできることなど微々たるものだと諦めて、端から行動を起こさないことを私は よしとしない。ただ、そういう多数の微々たる声を統一して運動として導くような リーダ には私はなろうと思わないし、リーダ たるに充分な資質も持ってはいない──大多数の人たちがそうではないか。以前、本 ホームページ でも綴ったけれど、リーダ というのは リーダーシップ の要件を綴った書物を読めば誰でも成ることができる訳じゃない、リーダ が生まれるというのは一つの事件 (偶発的な [ 予断を超えた ] 出来事) だと思う。そういう事件たる リーダ の気構えを我々凡人に問うのは無茶なことでしょう。キング 牧師は身を以て立ち向かったから彼の発言も真実味があるのであって、我々凡人が彼の言葉を口まねして無茶を言うから口先だけの 「理想」 になってしまう。
その口先だけの 「理想」 を揶揄しているのが引用文の二番目・三番目です。引用文の二番目は、「バラ は キャベツ よりも香りがいい、だから キャベツ の スープ よりも バラ の スープ のほうが美味しいはずだと結論づけるのが理想主義者だ」 と非難しています。引用文の三番目、「A radical (急進的な考えかたをする人) は、空中に両足を しっかりと据えている」 と皮肉を言っていますね。「理想」 というのは、本来、「考え得る最高の状態」 のことを云い、現実には未だ存在していないけれど、実現可能なものとして、我々の行為を導く目的・規範であり動因でしょう。したがって、もし その人が なんらかの 「理想」 を抱いて生活していれば、その人の行為には 「理想」 が なんらかの形で反照してくるはずです。「理想」 を語っても、その一片も行為のなかに反照していないことに対しては口先だけにすぎないというふうに我々は嘲るのでしょう。
不満の意を表明するために 「理想」 という語が使われているのを私は 多々 観てきました──たとえば、「我々の今の状態は決してよくない、我々の理想は しかじかの状態である」 と。そういう不満がでたときに、愚痴を言うだけで愚痴を消し去るための手立てを考えていないことがあるのではないか。我々が未来の 「理想」 に向かって進みたいのであれば、「理想」 に向かうために欠落しているもの [ 「理想」 を実現するために必要なもの ] を充足する行為こそが 「現実的な理想家」 の行為ではないか──「理想」 が具体性を欠落したときに空想となるのでしょう。「理想」 に向かって尽力している人は空想などしない。
さて、生活・仕事において私の 「理想」 とすることは、、、事業分析を 「科学」 にすること(*)。そのために私は TM (モデル 技術) を創ったし、今も それを改良中です──「ワークバランス」 などという観点から言えば、私は生活の多くを犠牲にして TM (モデル 技術) を創ってきて、およそ家庭人としては失敗でしたが、仕事に偏傾しながらも モデル 技術は私に 「考える」 ことの愉しみを与えてくれています。
(*) ここでいう 「科学」 というのは、常に成立する法則を立てることを云うのではなくて、ユーザ が事業過程・管理過程のなかで使っている語彙を対象にして (システム・エンジニア の個人的価値判断に基づいて事業を分析するのではなくて、) 事業の構造を正確に記述する 「文法」(論理規則) を示すことを云っています。
(2019年 4月15日)