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Something was dead in each of us, And what was dead was Hope. (Oscar Wilde)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Imprisonment の中で、次の文が私を惹きました。

    We think caged birds sing, when indeed they cry.

    John Webster (1580-1625) English dramatist.
    The White Devil, X:4

 
 Imprisonment は imprison の名詞形、imprison の語義は put or keep in prison (投獄する、監禁する)。Caged は 動詞 cage の過去分詞、動詞 cage の語義は enclose in a cage (鳥籠・檻に入れる)。引用文の意味は、「鳥籠の中で鳥が歌っていると我々は思うが、その実 鳥は泣いている」──動詞 cage (あるいは、imprison) [ 監禁されている ] の メタファー (隠喩・暗喩) として、「不自由な状態に置かれて不本意である」 ということを示しているのでしょう。

飼育されている動物を擬人化する

 野鳥を捕らえて鳥籠に入れて飼ったときに、鳥の鳴き声は野生時と飼育時では違うのかしら [ そんなことはないと私は思うのだが、、、 ]。鳥籠に入れるということが 「囚える (不自由な状態に置く)」 ことであるとして、人間の社会生活での監禁を写像・類推しているのでしょうね。野鳥は空を飛び回っていたのに、鳥籠の中では飛び回ることができないので活動が制約されることは確かでしょう。その反面で、鳥籠の中では天敵に狙われて命を落とすということは起こらない。そして、餌に困るということもない。鳥籠の中で飼われるのは 「満足な奴隷」 状態であるというふうに擬人化して言えるかもしれない [ しかし、鳥の 「感情」 を いったい 我々は わかるのかしら? ]。私の記憶が曖昧なのですが、或る詩人が動物園の檻に入れられている動物を観て、野生動物の囚われの身の悲哀・野生動物を拘束する人間の勝手さに対する憤怒を詩 (うた) っていたことが私の記憶のなかに残っています。野生動物の ペット 化という論点を 「動物愛護」 の観点を交えて考えてみたいのですが、その論点は本 エッセー で扱うには範囲が広すぎるので割愛します。本 エッセー では、犬・猫の飼育を我々の社会状態に なぞらえていることのみに限って綴ってみます。

 かつて飼育されていたけれど捨てられて野良になっている [ あるいは、生まれたときから野良であった ] 犬・猫を保護した動画が Youtube に多数 アップロード されています──私が特に好んで観ている動画は 「Hope For Paws」 (チャンネル 登録しています)の動画ですが、保護時に (人間に対して) 怯えている犬が保護されて動物病院で治療を施されたあとに フォスター (里親が決まるまで一時的に飼育をしている所) を請け負っている家・施設で飼育されて、 まるで生まれ変わったかのように嬉しそうに はしゃいで尾を振っている犬を観て、私は飼育が いちがいに 「監禁された状態」 だとは思っていない (犬は猟犬・番犬・放畜犬として古くから家畜化されてきたので、飼育されていても虐待されていた事例は除く)。

 私が観た野良猫についての動画のなかで一番に悲しかったのは、(「Hope For Paws」 の動画ではなくて、一般の アップロード 動画ですが) 生後二ヶ月ほどと思われる がりがりに痩せた野良猫 (子猫) が 長いあいだ餌に有り付けなかったらしく、餌を たまたま もらって腹がいっぱいになるまで むさぼるように食べていた動画です。でも、その子猫は数日後に路上で亡くなっていた。子猫は亡くなる前に たぶん 生まれてはじめて腹いっぱい餌を食べられたのかもしれない、短い命だったけれど最期に腹一杯食べられて幸せだったのかもしれない──私は そう想像して泣きたくなった。我が家の猫 (名前は 「さつき」、猫年齢 8才) も保護猫です。飼い猫の平均寿命が 15年くらいなのですが、野良猫の平均寿命は 5年だそうです──飼い猫は住居 (塒 (ねぐら))・餌・医療などの環境が整っているのに較べて、野良猫は それらが用意されていないので寿命が短い。最近、猫の飼育数が犬の飼育数を追い抜いたそうですね、「地域猫」 が増えてきて猫・犬の殺処分も減ってきましたが、猫・犬を捨てる人たちが まだまだ多い。

 
フリーランス の特性を野良猫に たとえる

 引用文は鳥の飼育状態を人間の社会状態に なぞらえていますが、逆に人間の生活状態を猫・犬の野生状態に たとえることもできるでしょう。私は 37歳から 65歳まで [ 年金を受給するまで ]、フリーランス でした。フリーランス を野良猫の状態になぞらえることができるでしょうね──フリーランス は まいつきの収入が定額保証されていない不安定な状態であって、野良猫が餌を独りで探さなければならないのと類似しています。私が フリーランス になった理由は かつて 本 ホームページ で いくどか述べてきたので ここでは割愛しますが、約 30年ほど フリーランス をやってきて思うことは、営業活動を全然してこなかったし広告も一切出さなかったけれど、「仕事は天下の回りもの」 であるという感を強くしています。私は 30年のあいだ ひとつの事 (モデル 技術の追究) しかやってきていない──マーケット の動向を観て、それが変わるたびに身の処しかたを変えてきた訳ではない。ひとりの フリーランス が独力で マーケット の動向を読むなんてことは できる訳がないし、もし できたとしても [ ひとりの フリーランス ができることくらいは ] 大企業が とうに やってしまっているでしょう。

 ひとりの フリーランス が数十億円・数百億円の プロジェクト を請け負える訳がない。そういう プロジェクト は会社組織にしかできない。会社組織のなかで働いていても ひとつの歯車でしかないというふうに若い人 [ 会社経験が短い人 ] が考えているのであれば、考え直したほうがいい──社会に役立つ大規模な プロジェクト は会社組織だからこそできるのであって、自分は その プロジェクト の構成員であるというふうに考えるほうが役得ではないか。フリーランス というのは、あくまで 個人で [ 独りで ] しかできないことをやるために──組織の制約・束縛 [ 組織のなかで果たすべき役割 ] を免れて自分のやりたいことをやるために──成り立つのであって、会社勤めが嫌だからという理由で選ぶような派生的状態ではない。組織人でいるか あるいは フリーランス になるかという選択は、音楽に喩えれば、オーケストラ の一員として他の楽団員たちと協調した技術力をもって シンフォニー 演奏の一部を担うのもいいし、ソリスト として個性溢れる演奏を披露するのもいい。ただし、どちらも fairly good や passable の技術力では プロフェッショナル としては通用しないでしょう。

 野良猫の生活は自由気儘な生活だが困難が多いと思うか、それとも困難が多いが自由気儘な生活だと思うか、、、「さつき」 の体を撫でながら私は ときどき 次のように 「さつき」 に言っています──「さっちゃん (「さつき」 の愛称) は幸せだね、餌は ちゃんと用意されているし、塒 (ねぐら) も用意されている。野良ちゃんは たいへんだよ、雨が降って寒いときも家がないし、餌も独力で探さなければならないのだから」。私の言っていることが わかっているのか わかっていないのかを知る術 (すべ) もないのですが、「さつき」 は 「ニャア」 と応えます。彼女は野良出身だけれど、子猫のとき (生後 6週間のとき) 我が家に来たので、野良猫の逞しさはない──「箱入り娘」 状態です (猫年齢 8歳なので、もう娘じゃないな。人間の年齢に換算すれば 44歳くらいなので、熟女ですwww)。

 

 
 (2019年10月 1日)

 

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