Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Indecision の中で、次の文が私を惹きました。
Nothing is so exhausting as indecision, and
nothing is so futile.
Bertrand Russell (1872-1970) British philosopher.
Attrib.
I must have a prodigious quantity of mind; it
takes me as much as a week, sometimes, to
make it up.
Mark Twain (Samuel Langhorne Clemens; 1835-1910)
US writer.
The Innocents Abroad, Ch. 7
引用文の一番目は、「優柔不断」 な態度のことを非難しているようですね──Nothing is so exhausting as indecision の意味は、「決断しないでいるほど疲れることはない」、そして nothing is so futile の意味は 「これほど無益なことはない」。決断を下さないで、ああだこうだと思案していれば確かに精神的に疲れるだけだし、なにも結果を生まない──決断しないで思案している状態というのは自分自身の思考・精神のなかでの現象にすぎないので、もし 自分自身のほかに他人が関わる事態に関する決断であれば、決断しないということが周りの人々に迷惑 [ 事態が遅々として進まないという迷惑 ] を掛けることしか生じない。
引用文の二番目の意味は、「私は色々と気に掛けてものすごく考えるたちなのだろう、だから 決断するには往々にして一週間をもを費やす」 ということかな。決断を下すときに、色々と考えれば、決断には時間を費やすことになるのは当然のことでしょうね。
知識人と云われる人々ほど優柔不断にみえるけれど、ちゃんとした知識人なら正しい推論ができるでしょうから決断に関わる諸々の例外を考慮して、決断をいったん下したならば諸々の社会的規則に従わなければならないことも考えながら色々と思考しているでしょう──その状態が Mark Twain 氏 (小説家) の述べたこと [ 引用文二番目 ] でしょうね、堂々巡りの思案に陥って時間を ただただ浪費している訳じゃない、時間を浪費している状態が Bertrand Russell 氏 (哲学者) が非難している状態 [ 引用文一番目 ] です。Mark Twain 氏も Bertrand Russell 氏も実績を遺した知識人です。私は知識人ではないけれど、決断は いたって遅いほうです──というか決断を ギリギリまでしない、決断を もうこれ以上引き延ばすのはできないという時点まで引き延ばします。
決断を引き延ばすことの欠点は私も重々承知しています──たとえば、決断を ギリギリ の時点まで延ばしていると、そのあいだに他の思いがけない出来事が起こって その対応に追われて、決断すべき時に決断できないという事態が生じることもある。私も かつて そういう事態に陥って後悔したことが幾度か体験しています。しかし、「決断せざるを得ない (決断を もう延ばすことができない)」 という状況まで追い込んだほうが私には決断にとって良い考えがでることが多い。
決断が速いほうがいいとか遅いほうがいいという timing は、おそらく 個人の性質に依存するのではないか──そそっかしい人が速断しても軽率な (無思慮な) 判断に陥って良い結果が期待できないだろうし、優柔不断な人が決断を引き延ばしても ただただ迷うだけで良い結果がでないでしょう。決断を引き延ばしつつ それなりの結果をえるためには、決断期限が迫るなかで焦ることなく沈着に考え続ける性質をもった人でなければならないでしょうね。私が そういう性質であるというのではなくて、重大な決断しなければならない状況になったときに、私は どぎまぎするので、先ず落ち着いて考える余裕がでるまで決断すべきことを放置しておきます。精神が落ち着いた後で、決断しなければならない ギリギリ になるまで、 できる限り多くの可能性について長く考え続けます。長く考え続けるとは言いましたが、ズッと考えるというのではなくて、一時 (いっとき) 集中して考えて その後は放置して、再び集中して考えて放置するということを くり返しているだけです。そして、決断を下す時点で、色々と考え続けた試案のなかで一番強く心に残った案を選びます。決断を下すというよりも寧ろ、集中・放置の くり返しのなかで様々な案が濾過にかけられて最後に強く残った案を選ぶくらいの気持ちで私は やりすごしてきました。
決断後に思うような結果にならなくても、私は一向気にしない。私が下した決断を自省することは けっしてしない、ただ そのときに妥当と思うわれることを為したにすぎない。決断した後は、私にできる事後対応があれば当然ならが為すけれど、そうでなければ成り行きに任せる──私が対応できないことに下手に手を出して事を悪くしたくはない。私の そういう態度が周りの人たちには 「まじめにやっていない」 とか 「飄々としている」 というふうに見えるようですが、すでに済んでしまったことには私は興味がない。
人生のなかで重大な決断を迫られることは、そうそう多くはないでしょう。進学・就職・転職・独立開業も私にとっては けっして考え抜いて決断したゆえでのことではなかった、その時々の流れに任せて選んできました。私は知的に向上すること (読書・思索) 以外は どうでもいいというふうに思っているようです。私は優柔不断ではないけれど、自ら進んで事を為すという動機が ほとんど起こらない。そういう意味では、私の やりかた というのは indecision の範疇に入るのかもしれない。一言でいえば、「ニート (neet)」 の性質が強いのでしょうね。
(2019年11月15日)