Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Independence の中で、次の文が私を惹きました。
I think it much better that...every man
paddle his own canoe.
Captain Frederick Marryat (1792-1848) British novelist.
Settlers in Canada, Ch. 8
私は、上記の引用文を 取り立てて気に入って選んだ訳ではない──というのは、independence の セクション に掲載されていた引用文は三つしかなくて、それらのなかで敢えて選んだというのが実情です。Independence の関連項目 See self-reliance として 7つの引用文が掲載されているのですが、それらは self-reliance を題材にするときに扱います。さて、上記引用文の日本語訳は、「すべての人が自分自身のカヌーを漕ぐことがもっと良いことだと私は思う」 ということかな。この文が述べられた文脈が わからないので、この文は色々と 「解釈」 できるでしょうが──それが格言集を読む愉しさの ひとつなのですが──、「カヌー を漕ぐ」 というのは 「自分自身の人生を他人の力に頼らずに前進させる」 というふうに 「解釈」 することもできるでしょうね。
昔 観た映画 「評決」(1982年公開、実話を題材にした映画) のなかで──この映画は医療過誤裁判を テーマ にしていて、私は レンタル・ビデオ で観ました──、アルコール 中毒の初老の弁護士 フランク・ギャルヴィン (ポール・ニューマン 氏が演じています) が生活費に困っていたときに先輩の弁護士から生活費を稼ぐために回してもらった医療訴訟を調べているうちに それが事故ではなくて医療過誤であるに気づいて、アル 中で身を持ち崩しそうだった彼が正義感に目覚めて医療過誤を裁判で暴こうとして判事に会いに行くのですが、すでに終わった事故 (事件?) について事故の関係者たちが事故に触れようとしないにもかかわらず独りで 「真実」 を暴こうとする弁護士に対して判事が次のように皮肉を言って ドア を 閉めて弁護士を シャットアウト します──「君 (きみ) が独りで騒いでいるのだから独りでやったらいいじゃないか、周りの人たちのことなど考えない Mr. Independent くん」 と (正確な セリフ を私は覚えていないのですが、「Mr. Independent」 だけは はっきりと記憶にのこっています)。アル 中で信用を失っていた弁護士は誰にも相手にされず、医療過誤を もみ消そうとする周りの人たちに阻まれて事件の立証は難儀します。映画の結末は、弁護士が陪審員たちに訴えて勝訴します──その時に彼が言った ことば 「You are the law」 が私の記憶に強くのこっています。
「我が道を行く」 ということが辛いことであるのは、私のような凡人でも いくぶんかは体験しています。私は、40歳頃に 「独自の」 モデル 技術を作ることに専念し始めました [ 尤も、「独自の」 モデル 技術と思っていたことは妄想であって、出来上がった 技術は 「数学基礎論」 や哲学では基本中の基本の技術を使って体系化したのすぎないことを後々思い知ったのですが、、、]。モデル 技術 TM を作る途上で、「数学基礎論」 と哲学の学習に専念しなければならなかった。私が学習に専念している際にも、社会 (IT業界) には色々な技術 [ オブジェクト 指向の様々な流派 ] が登場してきて注目を浴び、社会の最新状態に疎い私は さながら浦島太郎状態になった気持ちでした。私のやっていることは社会のなかで役に立たない自己満足にすぎないのではないかという気持ちに襲われて、モデル 論を学習していても虚しく思った時も多々あります。
私の 40歳代・50歳代は混迷・困惑のなかで ひたすら学習して モデル 技術を整えることに費やされました。2000年に拙著 「論理 データベース 論考」 を出版したとき、その 「あとがき」 のなかに次の文 (アインシュタイン 氏の ことば) を私は締めの ことば として引用しました── 「何があるべきであり、何があるべきでないか、ということに対する感覚は、樹のように成長し死んでゆくもので、どのような肥料を施してもこれを変えることはできない。個人にできることは、せいぜい清潔な規範を示し、シニックな人の多い社会において倫理的信念をまじめに主張する勇気をもつことくらいだ。ぼくは、ずっと昔から、自分の生活をそんな風に送りたいと努力し、少しずつ成功してきたと思う。」(ゼーリッヒ 著、広重 徹 訳 「アインシュタインの生涯」、東京図書、1974年)。これが当時の私の紛 (まぎ) れもない実感でした。
我々は、社会のなかで生活しているかぎりでは なんらかの形で それぞれの人が相互依存しているのであって、文字通りの independence 状態は有り得ないでしょう。それでも孤軍奮闘しなければならないこともある──そのときに問われるのは、生半可な気持ちでは途中で挫けてしまうということです。しかし、どんなに強い意志を持った人でも、大多数の人たちと違うこと [ 反対のこと ] をやっていれば、たぶん 気が気ではないでしょう。そういうときには、independance とは相反するのですが、「仲間」 がいるということは心強い──自分の考えを シェア (share) できる 「仲間」 がいれば、気を落とすことはない。ただ、「仲間」 どうしが慰めあうような同病相憐れむ状態であってはいけない。自己を重んずる心がなければ、そして それを相手にも認める心がなければ、「仲間」 は大した価値がない。
「論理 データベース 論考」 を出版した直後 (2000年) に組織された 「TM の会」 の仲間たちは、私にとって極めて力添えとなった──「TM の会」(モデル 技術TM を学習している会) は 20年続いている会ですが、私が主導して組織した会ではなくて有志たちが集まって作った会です (私は会ができた しばらく後に加入しています)、私が モデル 技術を説明する講師を務めていますが、私は主幹ではなくて会員の一人であって、会員たちは私に対して遠慮なく厳しいことも言います [ 言われたことに対して私が ときどき 苛 (いらっ) とすることもありますwww ]、私の言いなりになる人 [ 太鼓持ち ] などはいない。だから、私は この会が好きです。若い頃には──特に、才のある若い人たちは──「独力」(自分一人の力) で事を為したと思いがちですが、社会経験を積んでくれば、持つべきものは 「師友」 であることに思い至るでしょう──たとえば、学問領域での学会、宗教領域での僧伽 (samgha)、政治での党派などは その例でしょうね。
(2019年12月 1日)