× 閉じる

Men are born equal but they also born different. (Erich Fromm)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Individuality の中で、次の文が私を惹きました。

    It is the common wonder of all men, how
    among so many million of faces, there should
    be none alike.

    Thomas Browne (1605-82) English physician and writer.
    Religio Medici, Pt.U

 
    We boil at different degrees.

    Ralph Waldo Emerson (1803-82) US poet and essayist.
    Society and Solitude 'Eloquence’

 
 引用文の一番目は肉体的個性について語っていて、二番目は精神的個性について語っています。「個性」 というのが、「個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質」(「広辞苑」) という文字通りの意味であれば、個性のない人などいないでしょう──そのことは猫や犬などの動物の個体についても同様でしょう。「個性的」 という ことば の使いかたは、「個性」 をヨリ強調して 「独特なさま」 を云うようですが──たとえば、「個性的な文章」 とか 「個性的な顔立ち」 のように使いますが──、他の個性と比較して際立って目立つことをあわらしているのでしょうね。個体そのものについて言及した個性は ほとんど 話題にのぼらないけれど──たぶん、個体には個性があることは当然のことであるとされているのでしょう──、他の個性と比較したときに個性が我々の興味を惹くのでしょうね。

 肉体的な個性については、現代では遺伝子レベルまで分析がなされているようですが、たとえば瓜二つの双子が それぞれ ちがう環境のなかで育てられた場合には顔立ちがちがってくるのかどうか、、、きっとちがってくるでしょうね。生まれたときの顔立ちは、その後の生活のなかでの閲歴が刻まれて、親の保護下にあるときとは ちがうものとなるでしょうね。いっぽうで、他人でも似た人がいる。パスカル氏は 「瞑想録」 のなかで次の文を綴っています──

    似た二つの顔は、一つ一つの時には別に人を笑わせないが、
    二つ並ぶと、似ているというので人を笑わせる。

 個体には それぞれ 個性 (肉体的個性) があると我々は認めているけれど、その個性が複数・多数のあいだで似ていることに遭遇すると我々は びっくりするのでしょうね──肉体的個性 (外見) は、それぞれの個体のあいだでは明らかにちがう [ 同じ形は存しない ]、というのが我々の意識でしょう。

 いっぽう、精神的個性は どうか──これも 元来 同じものは存しないはずですが、肉体的な個性とはちがって、同質性 (あるいは、似ていること) のほうに重きがあるようです。その理由は、色々あるでしょうが、大きく言えば、次の二つではないかしら──社会性と抽象化。

 社会性とは、我々は社会を構成して その中で生活している集団的生活者の性質のこと。そして、社会が存続するには社会の中の それぞれの組織 (会社、学校、家庭など) の目的に沿った行動が構成員には要請されている。すなわち、組織の機能に合わせて、それぞれの個性を調整することが求められていて、個性を調整できないで組織の機能にとって障害になるような人は危険分子 (邪魔者) と見做され、迫害・排除される──いわゆる 「協調性 (同調性)」 がないということ。諺で云う 「出る杭は打たれる」 ということ (著しい個性は、疎まれる)。

 抽象化とは、社会の中での我々の行動を分析するために我々の性格・性質を抽 (ぬ) き出して心的作用を把握すること。そういう研究では、どのような性格・性質が どのような行動をするのかということを調べるので、当然ながら我々の性格・性質を一般化する──すなわち、我々の或る側面の質を共通化 (同質化) する。しかし、「ここに仮定された内奥の性格なるものは抽象的偶像にすぎない」(アラン 著、小林秀雄 訳、「精神と情熱とに関する八十一章」、132ページ、東京創元社)。 そういう研究を私は無意味だと言っているのではない──しかし、仮定-演繹的である [ パターン を前提にする ] ことは あくまで仮説であって、それだけでは 「観察断定」 を含意しない。それは、「事前確率」 において、似たような経験 (あるいは、性格・性質) は似たような結果 (あるいは、行動) につながると期待するに止 (とど) まる。したがって、因果律に付与されている 「必然性」(可能的に偽でないこと) に反する──すなわち、反例を提示することができる。そもそも 結果を期待し それが外れたら論駁されるというのが仮説なのである。クレッチマー氏の類型論を いまどき無闇に納得している人などいないでしょう。

 私は他人との同調性が希薄なほうです。若い頃 (20歳代・30歳代) には個性を強く示そうとして他人とはちがうことを奇を衒 (てら) って わざとやっていました。50歳くらいからは そういう意向は疲れるだけなので さすがに やらなくなりましたが、それでも同調性は希薄です。奇を衒うことはやめて、私は自らが やりたいことに集中しました──いずれの場合でも同調性は希薄なのですが その原因は根本的にちがう、いっぽうは他人と比較して自分は他人と ちがうことを示そうとしていて、もういっぽうは (他人との比較をやめて) 自分のやりたいことに専念したということです。自分が本気になってやるべきことをもたないとき、他人を意識して比較してしまうようです。成すべきを為せ──個体には個性が具わっているのだから、自身のやるべきことに集中すれば、自 (おの) ずと 「個性的」 になるでしょう。こういう わかり切ったことを実感するにも 存外 年数を費やすものですね。

 
 (2020年 1月 1日)

 

  × 閉じる