Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Innocence の中で、次の文が私を惹きました。
Now I am ashamed of confessing that I have
nothing to confess.
Fanny Burnesy (Frances Burney D'Arblay; 1752-1840)
British novelist.
Evelina, Letter 59
'But the Emperor has nothing on at all!' cried
a little boy.
Hans Christian Andersen (1805-75) Danish writer.
British novelist.
The Emperor's New Clothes
Innocence は、innocent の名詞形。innocent の語義は、(1) free from sin, guilty or wrongdoing, (2) doing no harm, (3) knowing nothing of evil or wrong, (4) foolish, simple (Oxford Compact English Dictionary )。Innocent について、宗教・法律の文脈で使われる場合を除いて、私は よい印象を持っていない──日本語の 「無邪気・あどけない・天然」 の意味に近い感覚として私には感じられるのだが、、、大人について 「無邪気・あどけない・天然」 というふう性質は ほぼ侮蔑になるのではないか。
引用文の一番目、その日本語訳は 「さて、私には告白するようなこと (後ろ暗いこと) が何もない、ということを告白するのは恥ずかしいと思う (情けない、みっともない、面目ない)」。この英文が語られた文脈がわからないのですが── ashamed とか confess というような繊細な意味や味をふくんでいる文であれば、文脈がわからなければ発話の意図を外してしまうのですが──、本 エッセー では、I have nothing to confess を 「後ろめたいことはしてこなかった」 というふうに捉えて、そういう己れを情けないというふうに 「解釈」 しておくことにします。ちなみに、キリスト 教での 「告白」 (懺悔) という行為の 「意味」 は、日本で生まれ育った私には 皆目 わからないので、引用文に その意味がふくまれていても、この エッセー では考慮しないことにします、悪しからず。
人生を 60年以上過ごしてくれば、たいがいの人たちは他人に言えないような秘密事 (隠し事) を二つや三つは持っているのではないか [ 勿論、私にも それはある ]。醜行・悪行──法律上の guilty か宗教・道徳 上の sin かという論議をさておいて──を 一切 犯さないで青春期から老年期まで人生を歩んで来たという人たちを立派だと私は思ういっぽうで、そういう人は なにかしら 魅力に欠ける [ 文字通りに毒にも薬にもならない ] とも私は感じています。「三界安きことなし」、その境遇のなかに生まれて自ら判断しながら己の道を歩もうとすれば、我々凡夫は時に道を外れることがある──「私は、道を外れたことをやったことがない」 という人は、完璧な宗教家か それとも自惚れ家でしょうね。立派な宗教家も、若い頃には自らの罪を意識して、そして修行に専念して壮年・老年に至っても修行を怠ることなく続けて仏家たることを堅持しているのではないか。 澤木興道老師 (禅僧) 曰く──「少住為佳、ちょっと一服すればいい。 人間をちょっと一服したのが仏じゃ。 人間が エラク なったのが仏じゃないぞ」。醜行・悪行など 一切 為さないという人は、人間たる性質 [ 長い年月を費やして成熟していく性質 ] を軽視しているのではないか。我々は生まれながらにして聖人君子ではない。そして、かつて犯した醜行・悪行は、人知れず棺桶の中まで持って行けばいい (← ここで、キリスト 教の 「告白」 が出てくるのだけれど、私は キリスト 教徒ではないので、それについて語るつもりはない。ただ、私と宗旨が違っていても、その 「告白」 が キリスト 教において 「意味」 のあることを尊重します。)
引用文の二番目、有名な童話 「裸の王様」 ですね。この童話の教訓は、多くの人たちは一度くらい耳にしているでしょうから、それを本 エッセー で再録するつもりはない。ただし、そういうふうに 「事実を ありのままに」 言えば、銃殺に処せられる国家も存するということは 子どもにも教えたほうがいいでしょうね──国家に限らず、組織 (会社、学校など) のなかでは、「事実を ありのままに」 言えば時に黙殺・厳罰・追放されることも教えたほうがいいでしょう。「事実を ありのままに」 伝えるにしても、言いかた (how to say) に気を遣わなければならない、私は若い頃に それができなかった (苦笑)。「事実を ありのままに」 伝える限り、それは直截な表現をとる──「だって、王様は何も着ていない!」 というふうに。それを 「無邪気・天然」 というふうに大人は言うのでしょうね。でも、大人の社会では、剥 (む) き出しの 「事実」 は厭われる──その典型例が diplomacy でしょうね。王様の側近の中で気転のきく人がいれば、次のように言っても よかったのではないか──「王様、きょうは このあと 少々寒くなりますゆえ、もう一枚 お召しになったほうがよろしゅうございましょう」、これを 「修辞」 というのではないか。
「修辞」 といえば、ことば を飾り立てること、ことば の上だけでいうこと のように悪い意味で使われることがあるけれど、元来、その意味は、ことば を適切に用いて表現することをいうはずでしょう。そして、「修辞」 が巧みにできて初めて文体が現れるのではないか。スタンダール は、文体について次のように語っています (「文学余論」)──
文体は透明なうわぐすりのようでなければならぬ。下地の色を変色
させたり、あるいは定着されるべき事象や思想を変質させたりして
はならぬ。
「無邪気・天然」 な状態では、こういう配慮はできやしない。文章そのものに凝って ことば にあくせくしているのは 勿論 良くないけれど、スタンダール の言う文体 [ 事実を変質させない修辞 ] こそ大人の出来栄えではないか。その意味で、innocent について、宗教・法律の文脈で使われる場合を除いて、私は よい印象を持っていないと本 エッセー の冒頭で綴った次第です。
(2020年 4月 1日)