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We live under a government of men and morning newspapers. (Wendell Phillips) |
Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Journalism の中で、次の文が私を惹きました。
When a dog bites a man that is not news,
John B. Bogart (1845-1920) US journalist.
Lord Curzon (1895-1950) British politician.
Norman Mailer (1923- ) US writer.
Oscar Wilde (1854-1900) Irish-born British dramatist. 私は、先ず以て journalist が大嫌いです──「すべての」 journalist ではない点に注意されたい、私が今まで接してきた [ すなわち、私が直接に取材をうけた、あるいは かつて 新聞・雑誌・ラジオ・テレビを聴視した ] journalist のなかで 「大方の」 journalist を嫌いになったということ、勿論 journalist のなかには すばらしい人たちもいました。それから、私は journalism を嫌いだとは言っていない、journalism が存しなければ、我々は世間のことを知ることができないのだから。 私が journalist を嫌いな理由は、本 ホームページ のなかで かつて述べているので、今更ながら長々と述べるつもりはない──端的に言えば、彼らが虚構 (無いものを存るとすること)・隠蔽 (存るものを無いとすること)・改竄 (存るものを意図的に [ 不当に ] 改悪すること) を平然とやらかしたのが私が彼らを嫌いになった理由です。Journalist に限らず、われわれの日常生活での つきあい でも、虚構・隠蔽・改竄を平然と [ 平気で ] 行うような ヤツ を我々は友だちにはしないでしょう。 引用文の一番目は、多くの人たちが一度は耳にしたことがあることでしょう──「犬が人間を噛んでもニュースにはならないが、人間が犬を噛めばニュースになる」 と。ニュース (news) は、その字義のとおりに 「新しい出来事 (および その報道)」 です。マスコミ の一番の存在理由でしょうね。しかし、近年、その存在理由が疑問視される報道が多い。「新しい出来事」 は、日々、必ず起こる訳でもない。たとえば テレビ は まいにち 報道時間帯をもっているので、出来事が起こらなければ困る──報道する出来事がなければ、そういう出来事を作るという (事実と その報道の) 本末転倒が起こる危険性が潜んでいる (← 実際は そういうことを平然と やらかしている [ 取材もしないで、記者の創作を事実のように報道している新聞がある ] )。出来事が起こる前に、すでに記事ができあがっている (笑)──それを非難しているのが引用文の二番目・三番目です。そして、出来事が起こって取材をしても、journalist は頭のなかで或る ストーリー (記事) を作っていて、その ストーリー を構成する事実しか集めない (苦笑)──ストーリー に沿わない事実を報道しない。さらに、報道が大衆の注目をあつめるように、刺激の強い誇張を施す。こういう報道の状態は、報道を逸脱している──ちなみに、こういう性質は プロパガンダ (宣伝) に顕著な性質ですね。 「マスコミ は 『事実を客観的に』 報道をすべきだ」 などという不合理なことを私は言うつもりはない。報道は 5W 1H (when、where、who、what、why、how) の六原則を守らなければならないというふうに云われているけれど、この六原則を守ったからといって、「客観的な報道」 にはならないでしょう── why と how には、報告する人の意見 (あるいは、推測) が混入することは免れない。しかも、その 「事実」 を伝えるときに、新聞などでは (記事に付けられた見出しの) 活字の大きさが出来事の重大性を示すように使われている──新聞社が付した見出しの活字の大きさを見て、事件の重大性を我々は無批判にうけいれているのではないか。「事実」 だけを伝えるのであれば、(why と how を除いて) 「いつ (時刻、when)」 「どこで (場所、where)」 「だれが (主体、who)」 「なにを (客体、what)」 したかを均一な活字の大きさを使って伝えれば宜しい。しかし、そういう体裁・内容の記事を だれが読んでくれるのか、おそらく ほとんどの人たちは そんな味気ない記事に目を通すことはしないと私は想像します。新聞を読む あるいは テレビ を観る大衆は、自分たちに 直接 関係しない出来事は他人事なので、面白おかしく刺激の強い報道でなければ興味を抱かないのではないか──こういう精神状態は、けっして良いとは言えないでしょう。Yellow journalism が非難されるときに必ずと言っていいほど用いる常套の反論は、「だって、それを もとめている人たちがいる」 という論です。そういう yellow journalism は不健全なので一掃しなければならない、などと言う石部金吉では私はない。ただ、そういう yellow journalism には私は近寄りたくない。 マスコミ が 自らの信条に立って (報道する 「事実」 について) 「意見を言う」 ことは大いに結構だと私は思っています。それを偏向報道とは私は思わない。偏向報道として非難される理由は、新聞社・テレビ局が自社の意見を言うときに、「公共な」 報道機関などという在りもしない観念的な隠れ蓑を纏うからでしょう──私が 「公共な」 報道と確信しているのは、天気予報のみです。現代の新聞・テレビ が直面している困難さは、語りかける相手が誰なのかを見失ったということでしょう──昔は (1980年代以前には) 階級とか反体制とかを、その教養なり信念なりによって識 (し) っていた (読者層にしていた) のが [ それを示しているのが引用文の四番目ですが ]、そういう対象を見つけにくくなったのではないか。 報道機関は、自社の論説を大いに述べれば宜しい、その論説に もし虚構・隠蔽・改竄が存れば、私は その論説 (および報道機関) に対して不信感を抱き軽蔑するだけです。社会について自らの識っていることが新聞で読んだ あるいは テレビ で観たそっくりそのままのことであるというような人たちは、(コンピュータ・ネットワーク が普及した) 現代では ほとんど いないのではないか。私は、新聞を購読していないし、テレビ (地上波) も [ スポーツ 番組を除いて ] 全然 観ない。それでも それで困ったことは毛頭ない、なぜなら コンピュータ・ネットワーク を利用して、出来事について (記者の色めがねを介さない) 一次情報 [ 出来事に関与している当事者たちが発信している情報 ] を できるかぎり入手するようにしているから。ただ、社会的出来事や他の人々のすることが気になって、それらを WWW や SNS を使って調べるために多大な時間を費やして、自分の手近の生活を等閑 (なおざり) にしがちです。私は 67歳です、そろそろ、そういう マスコミ (WWW、SNS) との接触を絶って隠居の用意する──自分の終活に向けた目標を立てて、今後 その目標を実現する生活を送る──老いの時期にさしかかったのかもしれない。 |
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