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There is no subject so old that something new cannot be said about it. (Dostoevsey)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Knowledge の中で、次の文が私を惹きました。

    If a little knowledge is dangerous, where is
    the man who has so much as to be out of
    danger?

    T.H. Huxley (1825-95) British biologist.
    On Elementary Instruction in Physiology

 
    We have learned the answers, all the answers:
    It is the question that we do not know.

    Archibald MacLeish (1892-1982) US poet and dramatist.
    The Hamlet of A. Macleish

 
 Knowledge の セクション には 36編もの引用文が記載されていたのですが、私の興味を惹いたのは上記の 2つでした──他の引用文のほとんどは 「知識は力である」 とか 「行動をともなわない知識は危険である」 とか 「知識はすぐに覚えるが知恵は なかなか 身につかない」 といったような類いのものであって、読書好きな人であれば すでに一度は どこかで目にした (ありふれていて平凡な) こと──今更敢えて論じ批評したいと思わないこと──でした。尤も、そう感じること自体が知識に毒されていることの証明なのかもしれないのですが、、、(苦笑)。

 さて、引用文の一番目、その意味は 「少しばかりの学問は危険だ、でも その危険から抜け出るほど学問を持った人物って どこにいるのか」 ということかな。すなわち、「『広く深く』 学問している人などいない、そして そういうふうに学問するのは そもそも できる訳がない」 ということでしょうね。物事の仕組みについて実証を重んじて明らかにするためには、対象範囲を制限して分析するしかない [ すなわち、内包を広くして外延を狭くするしかない ] のだから、研究対象は 元来 限定的です。学習研究の態度に関して、紀元前にも、中国の賢者たちは次のように言っています──

    知は多きを務めずして、必ずその知る所を審 (つまびら) かにす。
    (孔子、「家語」)

    多知にして親なく、博学にして方なく、好み多くして定まりなき者は、
    君子は与せず。
    (「殉死」)

 そして、現代の科学では、益々、この傾向は強くなってきているでしょう。その反面、そういう傾向が生む弊害として、専門分野の 「蛸壺 (たこつぼ)」 化が云われています。わが身に当てはめてみれば、私は 40歳の頃から今まで 25年ほどを費やして一つの研究分野 (モデル 論 [ 事業分析・データ 設計のための モデル 技術] ) を探究してきました。私のような程度の凡人でも 25年を費やして一つのことを研鑽してくれば、それなりに一家言をもつことができる。勿論、四六時中、モデル 論ばかりを学習している訳ではなく、他にも数学 (数学基礎論)や哲学や宗教や英語を学習してきました。私は自称 システム・エンジニア (情報 システム・コンサルタント) を肩書きにしていますが、システム・エンジニア の国家試験をうけたこともないし、うけるつもりもない──「文学青年」 が リレーショナル・データベース の誕生期に たまたま それを日本に導入普及する仕事に就いて、そして その仕事が機縁となって長いあいだ モデル 論を学習してきたというにすぎない。でも、25年も モデル 論を学習してきたというのは、ただの物好きではないということでしょうね、その学習が私の気質に合ったということでしょう。モデル 論を学習するうえで数学基礎論や哲学 (分析哲学) を学習しなければならなかったので学習を広げてきたという次第です。

 「文学青年」 であったので芸術一般 (文学・音楽・美術) を好きで、文学・英語のような自然言語と数学・モデル 論のような形式言語の二つを学習してきました──文学 (日本文学) と英語は、それぞれの言語上の発想法・思考法の違いについて強い興味をもって学習しています。つまり、私は、自らの専門技術 (仕事) として モデル 論を探究しつつ、人生いかに生きるべきかを問うて、文学をはじめとする芸術一般や宗教に赴いてきた訳です。一つのことを専門的に探究しつつも、私は専門家になることを嫌っていて──いわゆる「人文系の」 専門家 (authority)たちに対して、私は不信感を抱いている──、いっぽうで 「人間性 (あるいは、俗人性」)」 を意識 [ 凝視 ] しつつ人生とは何かを考えたいという気持ちが強い。否、逆かもしれない。「文学青年」 の気質が強いので、世俗とは乖離した虚構の世界のなかで、ともすれば世俗から浮いて破滅に流れやすいのを抑止するために、機能的な技術を拵えることに専念してきたのかもしれない。

 文学は──文学に限らず芸術一般と云ってもいいかもしれない──、つねに人生 (生活) そのものから材料を得ているけれど、それを昇華して一つの作品として結晶させる。そして、ここに多くの人たちが陥る罠がある──論理法則として成立する量化の規則は、「全称から単称、単称から存在」 という規則ですが、芸術の意義は 「単称から存在」 を示しているにもかかわらず、「人間性」 などという抽象語に誑 (たぶら) かされて単称から全称を いきおい思い描く罠に陥りやすい。というのは、我々の生活は独創的であり得ないので、己れが体験して考えたことは他人の似たような体験にも適用できると考えてしまう。人生 (生活) を独創的にしているのは いわゆる 「運命」 というものであって、作家は その 「運命」 を描き出す (虚構する) のが仕事なのであると私は思っています。そして、そこにも罠が入り込む隙がある──数々描かれてきた 「運命」 を公式化 (法則化、パターン 化) するという罠に陥る。そして、いったん、それらが公式化 (法則化、パターン 化) されてしまえば、それぞれの 「運命」 の前提が違うにもかかわらず、一律に 「全称から単称」 という法則の適用が行われて、 「答えが先に存る」 という珍現象が起こる。それを非難したのが引用文の二番目です。こういう罠に陥らないようにするには、つねに 「『前提』 を問う」 (文学作品でいえば、登場人物の環境条件を考える) ことを忘れないようにすればいい。

 
 (2020年12月15日)

 

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