Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Language の中で、次の文が私を惹きました。
Language grows out of life, out of its needs
and experiences...Language and knowledge
are indissolubly connected; they are
interdependent. Good work in language
presupposes and depends on a real
knowledge of things.
Annie Sullivan (1866-1936) US teacher of the.
handicapped.
Speech, American Association to Promote the Teaching of
Speech to the Deaf, July 1894
「言語と知識」 については、古来、哲学者や文学者や社会学者が考察してきた大きな テーマ であって、専門外の私ごときが その テーマ について新たに説を付することなどできる訳がない。しかし、そうだからといって、「言語と知識」 という テーマ は、それら専門家のみの専売特許である訳でもない。およそ、言語を使っている人は、そして自らの生活 (人生) を真摯に考えている人であれば、必ず直面する テーマ でしょう。私が敬愛している哲学者 アラン 氏は、次のように述べています──「精神のあらゆる手段は言語の中にある。言語について省察しなかった者は、全然何も省察しなかったも同じだ」 (「教育論」)。
言語の語彙を組みあわせて構成される文 (論文、随筆、小説、短歌、詩などの表現 [ 文体 ]) が、言語というものを人間が発明した時以来、(完全な複製品を除いて) なにひとつ同じものがないという事実に私は驚愕しているのです。引用文の云うように Language and knowledge are indissolubly connected, they are interdependent であるのなら、われわれの有している語彙が多ければ多いほど知識が増えるし、自らの考えを述べるための表現 [ 語彙の中から使用する語を選択して、選択した語を組みあわせて作る文 (文体)] は豊かになるのは当然でしょうね。語彙が変われば、それが示す観念も変わってくる。語彙が豊富であるということは、豊富な観念を有しているということでしょう。そして、精神は言語で作られ、その精神が思想を生む。文体とは、その精神そのものでしょうね。
文体について、私は スタンダール 氏 (小説家) が述べた次の意見に同感します──「文体は透明なうわぐすりのようでなければならぬ。下地の色を変色させたり、あるいは定着されるべき事象や思想を変質させたりしてはならぬ」 (「文学余論」)。言語と行為について、言語の性質 (言語は精神を作るという性質) が示すように、言語と行為は必ずしも一致する訳ではない。ただ、言語で作られた精神は、ひとつの文体なので、その人が誠実であれば、文体は 「透明なうわぐすり」 のように作用するはずだから、精神と行為は形こそ違っても、一体であるはずです──したがって、行為は また一種の言語であると言ってもいいでしょうね。「文は人也」 とは そういうことでしょう。だから、われわれの唯一の仕事は、文体を見出すことではないか。
(2021年 1月 1日)