Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Last Words の中で、次の文が私を惹きました。
Et tu, Brute?
You too, Brutus?
Julius Caesar (100-44 BC) Roman general and statesman.
I die happy.
Charles James Fox (1749-1806) British Whig politician.
Life and Times of C.J. Fox (Rusell), Vol. V
If heaven had granted me five more years,
I could have become a real painter.
Hokusai (1760-1849) Japanese painter.
Said on his deathbed
Famous Last Words (B. Conrad)
I have not told half of what I saw.
Marco Polo (c. 1254-1324) Venetian traveller.
Said on his deathbed
The Story of Civilization (W. Durant) Vol. T
So little done, so much to do.
Cecil Rhodes (1853-1902) South Africa statesman.
Everybody has got to die, but I have always
believed an exception would be made in my case.
Now what?
William Saroyan (1908-81) US dramatist.
Said on his deathbed
Time, 16 Jan 1984
If this is dying, I don't think much of it.
Lytton strachey (1880-1932) British writer.
Lytton Strachey (Michael Holroyd), Pt. V, Ch. 17
God bless...God damn.
James Thurber (1894-1961) US humorist.
Even in the valley of the shadow of death,
two and two do not make six.
Leo Tolstoy (1828-1910) Russian writer.
Refusing to reconcile himself with the Russian Orthodox
Church as he lay dying.
Last Words の セクション には 75編もの多くの引用文が記載されていました。辞世の ことば ですから、それらの一つ一つが重みのある ことば ですので、それらのなかから取捨選択など畏れ多くてできないのですが、短い引用文を敢えて選びました。辞世の ことば は、人生に対して ピリオド を打つ ことば なので、それらの一つ一つは意味ふかい──それらの一つ一つは敬意を払って読むに値する ことば でしょう。そして、それらを読む側の人は、自分の人生に照らして、読むでしょう。人間が出現して今まで どのくらいの数の人間が生きて死んでいったのかわからないけれど、一人一人は それぞれの独自の人生を送って、それぞれ万感の思いで人生の終焉を迎えたはずです──辞世の ことば は、なにも偉人たちだけが遺す ことば ではなくて、われわれ庶民だって それぞれの人生を閉じる時に 薄れいく意識のなかで なんらかの(感謝であれ、悔恨であれ)感ずる思いは走るでしょう。勿論、辞世の ことば を遺さない (あるいは、なんらかの いきさつ [ 急死、意識のないままの病死、老衰で薄れる意識のなか事切れるなど ] で遺せない) 人たちも多い、寧ろ そういう人たちのほうが圧倒的に多いのではないか。はたして私は どういう死に方をするのか、、、私は辞世の ことば を遺すのか、、、それとも去世を納得したうえで何も言わずに潔く逝くのか、、、今のままであれば──今の意識で今までの人生を振り返ったならば──、私は無言で一筋の涙を流して自らの人生を閉じるような気がする。
引用文の一つ一つについて、私の意見を述べることを今回は控えます──それらの一つ一つを読者の皆さんが自分の人生と照らして味わってみてください。
Last Words の セクション のなかに収められていないのですが──編集者が どうして収録しなかったのか私は ぶしぎに思っているのですが──、人類史上で一番に悲痛な最期の ことば を私は 今 噛みしめています。その ことば は キリスト の ことば です (Bible、Matthew 27-46)──
Eli, Eli, lema sabachthani? (エリ、エリ、レマ、サバクタニ?)
その意味は、My God , my God, why did you abandon me?
この ことば を発したあと、キリスト は息を引き取った。私は キリスト 教徒ではないけれど、キリスト は人類に対して一番に影響を与えたといっても過言ではないでしょう。その キリスト の最期は、聖書のなかに描かれている記述では、悲惨なものだった──彼は、二人の強盗といっしょに十字架にかけられ、そこを通りかかった人々は彼を罵り、彼と一緒に十字架につけられた強盗たちも同じように彼を罵り、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に彼を侮辱して次のように言いました(「新約聖書 新共同訳」、日本聖書協会)──
He saved others, but he cannot save himself? Isn't he the king of
Israel? If he will come down off the cross now, we will believe in him?
He trusts in God and claims to be God's Son. Well, then, let us see if
God wants to save him now?
他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエル の王だ。
今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。
「わたしは神の子だ」 と言っていたのだから。
そういう罵りを浴びせられたあとに、キリスト が叫んだ ことば が 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 です、そして息絶えた。
聖書の この件 (くだり) は、私の思考を刺戟する (色々考えさせられる)──なお、私は自らを キリスト の境遇に模して自らの不遇を嘆いているというような アホ じゃないので、念のため (笑)。世の中の できごと [ われわれ一般大衆の ふるまい、(祭司長、律法学者、長老などの いわゆる authority に代表される) 組織・制度など ] について考えさせられるのです。
キリスト は生前に次のように言っていました (Bible、John 12-24)──
I'm telling you the truth: a grain of wheat remains no more than
a single grain unless it is dropped into the ground and die. If it does
die, then it produces many grains.
はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のまま
である。だが死ねば、多くの実を結ぶ。
この 「一粒の麦」 の譬え話は有名ですね。仏教では 「血脈」(師から弟子に法灯がうけつがれていくこと) という ことば が使われていますが、血脈相承というのは、広い意味では、われわれの人生は なんらかの意味を相承していると云えるでしょうね。芥川龍之介 氏は、この ことば (の意味) に近い次の アフォリズム を遺しています (「侏儒の言葉」)──
わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを
作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎ
ない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。
この断章を われわれの人生に照らして読めば、共感できるのではないでしょうか。芸術家であれ エンジニア であれ、「物を作る」 ことを仕事にしている人たちは、芥川龍之介 氏が綴った 「悲しみ (あるいは、諦念)」、そして次世代への期待を宿しているのではないか。私が冒頭に綴った文 (「私は無言で一筋の涙を流して自らの人生を閉じるような気がする」) は、この感覚をあらわしているのかもしれない。
自分だけが他人よりも一足先に救われるというような傲慢さを慎めよ。
(2021年 1月15日)