Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Law の中で、次の文が私を惹きました。
Every one is innocent until he is proved guilty.
Proverb.
In university they don't tell you that the greater
part of the law is learning to tolerate fools.
Doris Lessing (1919-2013) British novelist.
Martha Quest, Pt. V, Ch. 2
Laws were made to be broken.
Christopher North (John Wilson; 1785-1854) Scottish writer.
Noctes Ambrosianae, 24 May 1830
Let us consider the reason of the case. For
nothing is law that is not reason.
John Powell (1645-1713) English judge.
Coggs v. Bernard, 2 Lord Raymond, 911
Laws are like spider's webs: if some poor
weak creature come up against them, it is
caught; but a bigger one can break through
and get away.
Solon (6th century BC) Athenian statesman.
Lives of the Eminent Philosophers (Diogenes Laertius), T
Law の日本語訳として、英和辞典には数々の訳語(法、法律、法則、掟、慣習など)が記載されているけれど、原義は 「定められたもの」 ということだそうです──古英語 lagu が語源で 「thing laid down」 という意味、lay と同じ語源だそうです (なるほど、その派生過程を鑑みれば、law の語感が掴みやすい)。
引用文の 1番目は、「推定無罪」 ということかしら、疑わしくても確証 (証拠と証明) がないかぎりは有罪ではない、と。この引用の出典は諺となっていますが、この諺が法律上に適用された事例が 「推定無罪」 でしょうね。我々の本性 (?) は善であって仁・義を先天的に具有しているので それらを前提にした道徳的政治をすればいいと孟子は説いたそうですが、その説と対立して、我々の本性 (?) は悪であって礼法を基にした秩序維持を重んじるべきだと説いたのが荀子の性悪説と云われていますが──「本性」 などというような 「らっきょうの皮剥き」 状態の抽象語を私は 全然 信用していないし、そういう曖昧な語を前提にした モノ の集まりの二分割法 (性善説か性悪説かという二元論) など からっきし信を置いていないのですが──、世の中には邪 (よこしま) な ヤツ らもいて、そういう邪な ヤツ が悪行をやらかして他の人たちに迷惑をかけないように法律を作って取り締まらなければならない──しかじかかくかくの常識なことを どうして いちいち法律にしなければならないのかと思うこともあるけれど、常識がわからない連中も多い、と吐露しているのが引用文の 2番目です。引用文の 2番目が言っていることには一理あると思われる事例になるのが、引用文 3番目です──「法律は破るために作られた (法律は破られてきた)」 と。この文の意味は 「(時代にそぐわない) 悪法など破っちまえ」 と考えることもできるし、法律がいったん制定されても、その後に (事件としては現象的には類似しているが) 動機などの事件成立条件が前例をそのまま適用できないことが起こるかもしれない。実際、前件 (動機) から後件 (事件の結果) を推定 [ 推論 ] できない事件も 近年 増えてきていますね、たとえば不特定多数の人たちを殺害した理由 (動機) が 「殺害相手は誰でもよかった、鬱積した気持ちを晴らしたかった」 と (殺害相手に対する恨みという直接的動機になっていない)。判例には 「理由」 が存する、「理由」 がないような法律は存しない、というのが 4番目の引用文です。5番目の引用文は、「法律は小市民を捕まえるようにはなっているが、巨悪は法律にひっかからないで逃れる」 と。
上述の私の文章のなかで私は 「常識」 という ことば を使いましたが、その意味は、多くの人たちが共通に考えている通念ということではなくて、「ボン・センス あるいは レーゾン」 ということ、私の証人は デカルト 氏 (哲学者) です。
Law とは なにかと考えれば、とてつもなく広大な論点になってしまう──「法」 は、物事の普遍的な在りかた あるいは物事をおこなう仕方のことを云うので、社会のすべてを論じることになって誰一人として語ることはできないでしょうね。だから、自分自身が属していて自分の行動 (体験) が実証できる領域 [ 自分が或る程度知っている領域 ] に限って 「法」 を述べるしかない。そういうふうに限られた領域 (domain あるいは universe) のなかで、法則・方法・作法を述べるしかない。そして、自分が属している領域の 「法」 が他の領域でも存するはずだというふうに期待するしかない、数学的に云えば、「コンパクト性定理」 が成立していると期待するしかないけれど、それでも期待は期待にすぎない。
数学では、モノ の量化法則は 「全称なら単称、単称なら存在 (特称)」 とされていて、「全称」 が扱われているのですが、我々の実世界では 「全称」 が適用できる事例は少数しかない (たとえば、「すべての生物は死ぬ」 とか)。「全称」 の 「単称」 化というのは、「すべて」 を対象にすれば一つ(固有)も対象になるということをいい、「単称」 の 「存在 (特称)」 化というのは、性質 P に関して、一つ (固有) を対象にすれば そういう性質を満たす対象が 「少なくとも一つ」(いくつか) は存在するということ。すなわち、我々の実世界では、「単称なら存在 (特称)」 は適用できるが、範囲を限定しない「全称」(そして、その全称から単称へ、および単称から全称へ)を適用できる事象は ほぼ存しない。だから、私は、「みんな」 とか 「すべて」 という言いかたをする人──たとえば、「みんなが そう言っている、常識じゃないか」 とか 「この やりかた を使えば、すべて がうまくいく」 というようなことを言う人──を (ずさんな考えかたをする人として) 信用しない。
我々が作る (発明する、あるいは発見する)「法」 というのは、「その範囲が限定された」 領域の 「法」 でしょう。だから、私は、一つの論説を調べるときには、(もし、その論が妥当な論理規則に従っていれば、) その目的と 「前提」 を問うことにしています。つまり、正しい 「前提」 に対して、正しい論理規則を使って推論すれば、正しい結論が出るということです。「論理」 を使うほどの人であれば、論理規則を当然知っているでしょうから、私は徹底して 「前提」 を問う。この考えかたを世間では 「garbage-in、garbage-out」 と言っています。そして、「法」 を作る (発明する、あるいは発見する) ことに従事している人の愉しみは、「法」 の発明・発見にあるのではなくて、その探究のなかにあるのではないか。ただし、そういう人が覚悟しておかなければならないことは、その人は世間のなかでは 「異端」 として始まり 「邪教」 として終わるということ──法律、慣習、掟は投票で決められるかもしれないけれど、「法」 は 元来 大衆の喝采で造ることもできないし、その正否は投票で決められるものでもない。
私は、「法」 ということを考えるとき、Galileo Galilei (ガリレオ) の次のことば を思い起こします──「Eppur si muove エップル・スィ・ムオーヴェ (And yet it moves)」。太陽が地球の周りを回っていることを経験的 「実感」 として確信していた人たちに向かって、地球が太陽の周りを回っているという推論 (「法」) を説くことは邪教と見做されるでしょう。それでも (命を賭けて)「法」 を説き続けることができるか、、、私には きっと できない、ビビって できない (← というのは大げさな言いかたであって (笑)、そう考える以前に、私は自らの 「実感」 に信を置いていて、私の 「実感」 を否定する ガリレオ 氏を罵るでしょうね──これが 「実感」 とか 「経験」 を重視する人たちの限界 (思考の限界) です、それは私が デカルト 氏の 「我思う、故に我在り」 という思想が腹に入っていない [ 皮相的にしか掴んでいない ] ことを露呈しています (苦笑))。
(2021年 2月15日)