Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Learning の中で、次の文が私を惹きました。
What we have to learn to do, we learn by
doing.
Aristotle (384-322 BC) Greek pholosopher.
Nicomachean Ethics, Bk. U
引用文は、アリストテレス の「ニコマコス 倫理学」 から抜いた文です──「ニコマコス 倫理学」 は大著です、そして私は それを読んだことがないので この引用文を その書物の文脈のなかで語ることはできない、だから 「ニコマコス 倫理学」 の文脈を離れて、ふだんの生活のなかで誰かと話していて、その人が ふいに洩らした この文が私の頭にひかかっていて [ 気になっていて ]、どうして この文が気になっているのか理由を探る、という前提で考えてみたい。「反 コンピュータ 的断章」 (および 「反 文芸的断章」) の エッセー は、そもそも、私が日ごろ考えていることについて改めて筆を起こしているのではなくて、英語の引用辞典に記載されている文のなかから気になった文を選んで それについて考えるという体裁をとってきています (落語で云う 「大喜利」 のような形態です)。ふだん ゆっくりと考えていなかったことを改めて考えて、引用文から誘発されて私の頭に浮かんだことを綴っていく──文を綴りながら考える、わからないから書く──という形態をとっています。したがって、「反 コンピュータ 的断章」 (および 「反 文芸的断章」) の かつて綴った一連の エッセー を私自身が読み返してみて、自らの ものの考えかたを確認できるという利点がある。勿論、今の私の考えが かつて綴った考えとは違ってきているという エッセー もありますが、それを知ることができるのも かつての エッセー が遺っているからでしょう、「反 コンピュータ 的断章」 は 2003年から綴って、「反 文芸的断章」 は 2004年から綴っているので、かれこれ 20年近く綴っていて、(途中 3年ほど休止していますが──介護 ヘルパー の夜勤をやっていたので (5年 3ヶ月間勤務)、そのあいだは本業と兼務していて身心ともに疲労して机に向かう余裕がなかったのですが──、15年間ほどの エッセー が遺っているので、) それらを読み返せば私の考えかた (あるいは、考えかたの変遷) が私自身にも よくわかる [ 当時の考えが今の私の考えとは逆であっても、それを当時の文証として残していて削除はしていない ]。私が敬愛して手本にしている アラン 氏・ヴァレリー 氏・ウィトゲンシュタイン 氏は、彼らが日々考えたことを ノート に綴って、ノート が多量に遺されています──彼らは思索することが仕事であった哲学者ですので、日々の思索を ノート に綴ることは当然のことなのかもしれないですが、私のような程度の凡人であっても、(「彼らと同じように まいにち 考えを綴る」 というのは無理ですが、) 文を 時折 綴りながら考えるという行為は見習いたい。
さて、引用文ですが、この文を倫理学の観点から考えることもできるでしょう──「哲学は倫理学である」 とか 「我々の生活は、理性的で徳をともなった活動をめざすべきである」 ということを論点 (議論の起点) にして、考察を進めることもできるでしょう。そういう考察をするのであれば、「ニコマコス 倫理学」 を読まなければならないし、「ニコマコス 倫理学」 を学習するのが目的ではないので、倫理学・哲学の観点で定義・論証を考えることをしないで、日常生活のなかでの文として考えてみます。「What we have to learn to do, we learn by doing」 (なにをやらなければならないかを知るということは、実践しながら学ぶことである)とは、(「ニコマコス 倫理学」 のなかの文脈を離れて考えれば、) 我々が ふだん 多々 目にしていることでしょう──たとえば、私が仕事している コンピュータ 界隈でも、「プログラマ は プログラム を書きながら プログラミング を覚える」、「(ものごとを) 理解する」 というのは そういうことではないか、つまり 「(ものごとを) 理解する」 には、「その渦中にいる」 というのが絶対の前提でしょう──或る仕事に新しく就いた人が仕事の やりかた を説明されたあとで、その仕事を実際にやってみて、その仕事の期待されているとおりに行為 (反応・適用) ができたならば、その仕事を理解していることになる。更に、その仕事を いったん 体得したとしても、その仕事を続けているなかで、仕事を ヨリいっそう effective・efficient にするために工夫を重ねていくという やりかた しか熟練に至る道はないでしょうね。簡単に言ってしまえば、「努力を弛 (たゆ) まず実践する」 ということでしょう。
私は 67才の初老です、若い頃には 「努力を続ける (持続は力)」 ということを頭ではわかっていたけれど、それを実感できなかった──それは当然であって、努力 (の持続) が目に見える成果として現れるには長い年月がかかるので、短期間では努力が実を結ぶのを実感できない、だから努力している途中で (これでいいのかという) 迷いがでる、あるいは もっと効率的な やりかた が他に存るかもしれないと疑いはじめて ハウツー 本を多数読み始めるという罠に陥る。すぐれた先達の著作を読んで そこに示されている やりかた を学んだら、先ずは (余所見しないで) その通りにやって弛まず続けるほうが ほんとうの近道でしょうね。余所見しないで、渦中にいて、努力を続けるということしか事を成す道はないでしょう。頭のなかで どれほど すばらしいことを考えていても、実際の 「形」 として現れなければ、それは無いに ひとしい──こんなことは中学生でもわかっていることだけれど実践するのが難しい、しかし 努力を継続した人だけが事を成す。目的を立てて努力した人すべてが目的を成就できるという訳ではないけれど、目的を成就するためには努力を続けることが前提でしょう。努力を続けている途上で、失敗や挫折することもあって、自らの知力の無さを知って落ちこんで、努力し続けたことが無意味に思えて もう停 (や) めようと思うこともあるけれど──私も、かつて そういう思いを持ったことがあるけれど──自らの目指している道が間違ってはいないという手応えが僅かでも感じられるのであれば、(少し休息してから) 再び歩み続けるべきでしょう、もしそこで停めてしまったら、失敗として終止符を打つことになってしまう。
私は、自らの仕事を今振り返ってみて、幸いにも、ひとつのこと (モデル 技術) を 30年弱のあいだ続けることができました。企業に勤める会社員 (職種の異動がある組織人) では そんなことはできないと言う人たちがいるかもしれないけれど、私は そうは思わない──会社員であることを選んだならば、会社員としての力を仕事を通して学べはいい、プログラマ が営業職に異動になったら、プログラミング で培った技術を営業職で どのように活かせるかを考えればいいではないか、逆に云えば、モデル 技術を一筋に仕事していた私には、そういう チャンス はない (ただし、介護 ヘルパー をやったとき、本業の仕事と介護職と並行しながら、私の思考に相乗効果があったことを私は体感しています)。さらに、非正規雇用の人が指図されたこと以外のことをやるのは越権行為になるので、指図された通りのことしかできないし仕事を通しての たのしみなど見出すことはできない (無駄だ) と言うのであれば──もし、その人が本気で そういうふうに言っているのであれば、その人の人生なので [ 私には関係のないことなので ] 私は その人に対して どうこう言うつもりは毛頭ないけれど──、そういう人と私は つきあいたくない (御免蒙る)。仕事の手続きを記述した マニュアル なんて仕事に阻害が発生しないような手続きを記述した取扱い手引きであって、それぞれの仕事を実践するには我々の その仕事に対する思い入れや実行する態度が盛り込まれるのは当然でしょう。仕事に対する思い入れがなくて 「言われたことだけを (言われたとおりに そのまま) やればいい」 という やる気のない態度では仕事の質が それなりのものにしかならないのは当然のことではないか。仕事に対して真摯に向かわない人と私は真面目な話をしたくはない。なぜなら、そういう人は、「なにをやらなければならないかを知るということは、実践しながら学ぶことである」 ということを軽視しているから──すなわち、「(ものごと [ 仕事 ] を) 理解する」 ことを放棄しているから。
一日 (あるいは、人生) の大半を占めている仕事のなかに たのしみを見出せないというのは、仕事の余暇である趣味・娯楽の一時 (いっとき) の気晴らしたる たのしみを除けば、人生そのものに たのしみを見出せないということではないか。それは余りにも空虚な人生ではないか、他人の人生を私は どうこう言うつもりは毛頭ないけれど、私の人生 [ 残された人生 ] では そういうことは避けたいと思っています、私は ズッと昔から自らの仕事を充実したいと思って努力していて、少しずつ成功してきたと思う (ただし、ここで言っている成功とは、自らの意欲で以て仕事を選んで自由な学習研究ができて、その学習研究の成果が他人に役立ち喜んでもらうという意味であって、金銭的成功のことを言っているのではない)。実際にやってみなければ、「勘所」 と云われる仕事の急所についての感覚や、仕事の更なる工夫など考えられる訳はない。
(2021年 4月 1日)