× 閉じる

Dull 8. To make dictionaries is dull work. (Samuel Johnson)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Lexicography の中で、次の文が私を惹きました。

    The responsibility of a dictionary is to record
    a language, not set its style.

    Philip Babcock Gove (1902-72) US dictionary editor.
    Letter to Life Magazine 17 Nov 1961

 
 Lexicography の意味は、「the theory and practice of writing dictionaries」。
 引用文の日本語訳は 「辞書の責務は、言語(ことば)を記録することであって、言語(ことば)の様式(表現形式)を決めることではない」。

 ひとつの辞書を編集することは とてつもない労力である、ということを我々凡人でも想像するのは難くない──実際、日本初の近代的国語辞典「言海」の序を読めば その労苦がわかる。私は、30歳代頃、辞書を収集する好事家になった──特徴ある [ 個性ある ] 辞書(古典辞典、国語辞典、類語辞典、漢和辞典、英英辞典、英和辞典、和英辞典、語法辞典、引用句辞典、百科事典、その他の特殊辞典)を私は集めてきました。私の集めた辞書は、本 ホームページ の 「読書案内」 に記載していますので、ご興味のある人はご覧んください。50歳半ばすぎ頃から、私は辞書の収集をやめてしまった。というか、40歳なかば頃から極貧になったので、辞書を買い集める金銭の余裕がなくなって、辞書収集を諦めた次第です。

 辞書というのは、普通、学習の便に供するため あるいは日常生活でわからない ことば を調べるために使うのであって、普段使わないような あるいは編集年代が古くて現代では役立たない辞書を集めるというのは いったい どういう意味があるのかと他人から訊かれれば、私は明確な返事をもっていない (苦笑)──集めたいという衝動に駆られて集めているとしか言いようがない。勿論、心にも無い えらそうなことを言おうと思えば私は言うことができるけど、そういう発言は私の真意から外れている──たとえば、「辞書は、その辞書が出版された国の文化の縮図である」 というふうに言おうと思えば言えるけれど、そういう発言は (辞書編集者でもない) 私が言っても空々しい。私の心中 (しんちゅう) は、辞書が好きだから買うという恋愛感情に近い。

 私は辞書が好きです。ここで言っている辞書というのは、先行出版された辞書のいくつかを コピペ して作ったような二番煎じの辞書を言っているのではなくて、他の辞書にはない特性をもった辞書のことを言っています。辞書というのは、ことば (単語) の読みかた・意味・用例 (・語源) などを説明した書物であって、どの辞書も似たり寄ったりで特性などあるはずがないと思われるかもしれないのですが、それぞれの辞書には個性が ちゃんとあります。私が蒐集している辞書は (日本語でも英語でも) 個性ある辞書です。

 私は、所蔵している辞書を使ったことがない──蔵書の辞書は、拙宅に隣接する アパート (3DK) を借りて そこに置いていて、それらの辞書を使うということがない。辞書を使わないのなら買うのは無駄であろうと思われるかもしれないのですが、「反 文芸的断章」 (2021年 4月 1日) で以前に述べたように功利を度外視して所有するのが好事家の性質なのです。(読まないにもかかわらず) 持っているというだけで嬉しいのです──アホと言われればアホでしょう www、それは本人も自覚しています。

 所蔵しているだけの辞書とはべつに、日常使う辞書を私は拙宅のほうに置いています──拙宅のほうにも優に 80冊以上は置いてあります。くだらない書物を買うくらいなら、私は辞書を優先して買います (尤も、最近は辞書を買わなくなったので、この話は私が 30歳代から 40歳代なかばまでの昔話です)。日常使う辞書として私が買ってきた辞書は、用例が豊富に収録されている辞書です。用例のない辞書は、日常の使用のためには買わない。特に英語は、私には外国語なので学習するには用例が 多数 記載されていなければ使い物にならない。英語の辞書では、私が一番使っているのが、Idiomatic and Syntactic English Dictionary (ISED と略)、OXFORD Advanced Learner's Dictionary (OALD と略)そして新編 英和活用大辞典です。ISED は版が古い (出版年度が古い) ので電子辞書には収録されていないのですが、OALD および英和活用大辞典は電子辞書に収録されているので重宝しています。電子辞書には、新和英大辞典 (第五版) も収録されているので──そのほかにも多数の大型辞典 (ジーニアス英和大辞典、リーダーズ英和辞典、リーダーズ・プラスなど) が収録されているので──手帳大の電子辞書一台を外出するときに携帯していれば、大型辞典を 多数 帯行していることになる。そして、たとえば通勤途上の電車のなかで、頭に浮かんだ日本語を和英大辞典を使って英語に訳してみて、その英語訳 (英語の単語) を英和活用大辞典で調べて、そこに記載されている用例を すべて 読んでみて、単語の だいたいの image (概念) が掴めたら、OALD で その単語の定義 (および用例) を読むというふうに辞書を使って遊んでいれば、その結果、多量の英文を読むことになる。

 英語を学習しようとして、英文を多量に読もうと がんばっても──私の若い頃の失敗談を白状すれば──しだいに おっくうになって、ついには英文を読まなくなってしまいがちですが、電子辞書で遊びながら英文を読めば、意識しないでも、英文を まいにち 読んでいることに ひとしい。英語の フォニックス や聞き取りも、Internet を使えば英語の動画を無料で視聴できる。スゲー時代になったもんだと私は感嘆しています──私が大学生だった頃 (1970年代)、電子辞書もなかったし、英語を学習するには映画館に行って洋画を観るか (勿論、有料です)、英字新聞を購読するか (勿論、有料) あるいは無料の媒体であれば ラジオ 放送 の FEN を聴くしかなかった。今の学生たちは とても恵まれた環境にいると思う──たとえば、YouTube には英語を学習するために無料の動画が豊富に アップロード されているし、英語にかぎらず なにかの領域を学習しようと思えば、良質な動画を無料で視聴できる。

 言語学習 (日本語・英語の学習) にかぎって言えば──用例は ネット 上 に膨大に存るので [ ネット そのものが一大 corpus になっているので ]、辞書に記載されている数くらいの用例など不要で、辞書には ことば の定義さえ記載されていればいいと思いたくもなるけれど、辞書の記載を改めて読んでみれば、定義の用例として記載されている文例が的確であることを再確認するでしょう。そして、なによりも辞書の強みは、単語の定義・用例を すべて 読めば、その単語の全貌 (すなわち、単語の image [ 単語が与える印象 ] ) を把握できるという点でしょう。ことば は時代とともに定義 (意味) が変わっていく──新たな定義 (意味) や衰退して使われなくなった定義 (意味) が生じる、ことば の定義 (意味) を決めるのは、ことば を使って コミュニケーション を通わしている大衆です。言語学者の創案した理論で以て ことば の用法 [ 様式 ] が決まるはずもないでしょう。そうかといって、辞書は社会のなかで生きている ことば をつかまえて標本にした単純な アルバム でもない。語感 (ことばの与える感じ) を どのように記述するか、そして その語感を的確に伝えるために どのような用例を選ぶかという点は辞書編集者の腕の見せ所でしょう──辞書編集者の工夫 (のすばらしさ) を知るには、試しに、ひとつの単語について [ たとえば、「愛」 について ]、どのような記述がなされているかを複数の辞書で [ たとえば、広辞苑、大辞泉、大辞林、新潮 国語辞典 [ 古語・現代語 ]、日本国語大辞典を ] 比較してみてください。それぞれの辞書の工夫 (定義・用例の工夫) をわかれば、辞書の面白さを感じる (あるいは、辞書収集家の気持ちがわかる) のではないかしら。定評のある辞書というのは、いずれも個性ある辞書です。

 私が 最近 興味を抱いて観ているのは、「違う」 という ことば の使いかたです──たとえば、「違っていない?」 という言いかたを 「違くない?」 というふに言っている若い人たちが多くなってきているのを私は感じています、その言いかたの文法的な説明は専門家たちがしてくれるでしょうが、「違くない?」 という言いかたが若者ことば (口語、卑語) として どうして生まれてきたのか、そして一時的に流行 (はや) って やがて廃れていくのか、それとも定着するのかというのを私は興味を抱いて観ています。ことば は コミュニケーション のための用具なのだから、社会の変遷とともに その使われかた (意味) が変化していくし、新たな ことば が生まれ、または使い古され消えていく、そういう ことば の生態を記録するのが辞書でしょうね。すぐれた辞書──たとえば、日本国語大辞典、大漢和辞典、Oxford English Dictionary など) は、その辞書が出版された国の文化の縮図であるというのは 矢っ張り──いろいろ考えてみても結局は──正しいのでしょうね。

 今気づいたのだけれど、私が辞書類を好きなのは、それらが私に思想の押しつけをしないからかもしれない、、、私は他人から思想を強要されるが大嫌いです (たぶん、自らの頭脳で考えることを好む人は たいがい そうであると私は想像します)。私が自らの思想を作るのであって、その切っ掛けを与えてくれる人たちは私が これと思う人たち (思想家、哲学者、文学者) を選んで彼らの書物 (全集・選集) を買って読んでいます。私の手本となる そういう人たちは数名いれば充分すぎるくらいです。彼らの考えかたを読み返して、彼らを同化し、消化しようと努めていても彼らは天才たちなので なかなか 消化しきれない。しかし、それでも彼らから学んだ考えかたを私のものにするには、彼らが ことば を次々に連ねて、喩えれば ピアノ の鍵盤を次々に押して旋律を作ったように、彼らの ことば の響き合いに耳を傾けるしかないのでしょうね。思想は文体に載って運ばれる。そうだとすれば、ことば の定義・用例を豊富に知っていればいるほど文体を作りやすい。私の好きな作家 三島由紀夫氏は、辞書を読んでいたということを私は どこかで読んだ記憶がある。

 
 (2021年 5月 1日)

 

  × 閉じる