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The art of living well and the art of dying well are one. (Epicurus)

 

 Bloomsbury Thematic Dictionary of Quotations セクション Life and Death の中で、次の文が私を惹きました。

    Birth, and copulation, and death.
    That's all the facts when you come to brass tacks.

    T. S. Eliot (1888-1965) US-born British poet and dramatist.
    Sweeney Agonistes, 'Fragment of an Agon'

 
    There are only three events in a man's life;
    birth, life, and death; he is not conscious of
    being born, he dies in pain, and he forgets to live.

    Jean de La Bruyère (1645-96) French satirist.
    Les Caractères

 
 引用文 1番目の意味は、「誕生、そして交合、そして死。それはすべて(直接関係のない話はよして)すぐに取りかかるべき現実問題(事実)なのである」。引用文 2番目の意味は、「人生においてはたった 3つの出来事しかない──誕生、生きること、そして死。人は生まれた状態を意識していない、人は苦しみのなかで死ぬ、そして人は生きることを忘れている」。これらの二つの引用文は、ほぼ同じ メッセージ を我々に訴えていますね。これら二つの引用文が述べていることは、仏教で云う 「四苦」 に近い。

 私は 30歳代の頃から 「禅 (禅宗)」 に惹かれていたので、これら二つの引用文を読む前に、仏教の 「四苦八苦」 という ことば のほうを知っていました──「四苦」 というのは 「生・老・病・死」 のことを云い、「八苦」 というのは 「怨憎会苦 (おんぞうえく)、愛別離苦 (あいべつりく)、求不得苦 (ぐふとくく)、五陰盛苦 (ごおんじょうく)」 のことを云います。「四苦」 は人生の時間的配置になっているので 「八苦」 に比べて覚えやすいし、たぶん、仏教に少しでも惹かれた人であれば 「八苦」 の中身を正確に覚えていなくても 「四苦」 の中身を知っているのではないかしら。「四苦」 のなかの 「老・病」 は、引用文の二つにおいて copulation あるいは life という ことば で まとめられていますが、copulation あるいは life の中身を腑分けしてみれば 「老」 (健康な状態で 「死」 に向かっている) と 「病」 (健康ではない状態に陥る) とに二分できるでしょうね。それゆえ、本 エッセー を 「四苦 (生・老・病・死)」 という観点に立って綴ってみます。

 先ほど述べたように、仏教に興味を抱いていた私は、30歳代の頃から 「四苦」 を知っていましたが、それを知識として習得していただけであって自らの生活のなかでは実感していた訳ではなかった。「四苦」 を実感できるようになった年齢は 67歳になってのことです──「老い」 を痛切に感じるようになった、65歳のときには 「老い」 など感じてはいなかったのに、そのわずか 2年後には 「老い」 を実感するようになった。「老い」 を実感するような 取り立てて特筆する出来事が (たとえば、足腰が弱くなって歩行が困難になるとか) 起こった訳ではない、身体の機能がいちぶ著しく老いぼれて老体になったことを感じた訳ではないのですが、身心の全体が すべて ほぼ均等に老衰していることを意識しました。髪の毛は若い頃に黒々と豊富だったのに今では白髪になって量も減って毛の張りを失い禿げてきて、両頬は僅かながらも垂れ (いわゆる ブルドッグ 顔)、両耳は周波数の高い音を聞きとれなくなって──30歳代の人が聞こえる周波数の音が聞こえなくなって──、大胸筋がそげて筋肉の張りを失い、腸腰筋は力を失って腹が垂れて出っ張って (いわゆる 「ぽっこり腹」)、さながら地獄絵図に描かれている餓鬼の体躯──幼児・老人に特有の体付き──に 漸次 近づきつつある。腰痛も慢性になっているのですが、腰痛の原因は終日 (大げさな言いかたではなくて、事実として──身体運動をするために戸外に出るときを除いて──起床してから就寝するまでのあいだ便所に行くほかは) パソコン に向かって座りっぱなしなので、これは加齢が原因の腰痛ではなくて職業病です。頭脳のほうも、記憶力が明らかに低下している。

 「老い」 を後らせるために、いわゆる アンチ・エージング として、身体運動 (早足歩行 30分、逆腹筋などの ストレッチ 運動、階段 70段の往復昇降 5回) を週 3回の頻度で行っています。腹周りは、この一年間で ベルト の穴を一つ約 (つづ) めましたが、そこから更に一つ約めるのが なかなか 難しい (腹周りの脂肪が減らない)、、、ベルト の穴を もう一つ約めることができれば、40歳代の頃の腹周りに近くなる。身体運動そのものは、数年前からやっていたのですが、まいとし恒例の富士山登山の準備運動として 5月か 6月頃から始めて登山が終わった 9月に止めていました、つまり 3ヶ月か 4ヶ月しかしていなかった。一年を通して身体運動をやるようになったのは、2年くらい前 (66歳のとき) からです。一昨年の富士山登山のとき──昨年は、コロナ 禍の影響で富士山が閉山となったので登山ができなかった──、体力の衰えを痛感したので、3ヶ月程度の準備運動では不十分であると思い知った。そして、67歳になって 「老い」 を実感するようになって、身体運動のほかに食事に気を配るようになった。66歳頃まで晩酌をしていたのが (酒を まいにち 一合呑むので白米飯は一切とらなかった)、67歳になって一ヶ月に 1回か 2回ほどしか酒を呑まなくなった。そして、白米飯の代わりに玄米ごはん・赤飯を主食にして、日本食の粗食に近い メニュー (野菜、豆腐、きんぴら、魚、沢庵、ゆで卵など) にしています──勿論、動物肉 (豚肉、牛肉) も一日一回は食しています。食事の頻度も日に三食から二食に減らしました、いわゆる 「16時間断食」 を習慣にしています。

 身体運動・食事には気を配るようになったのですが、生活時間帯は相変わらず昼夜逆転のままです──朝 6時か 7時に寝て、昼 1時か 2時くらいに起きるという生活です。私は会社に出向くことがないので、目覚まし時計は使っていない、目覚まし時計を使わなくても、7時間 寝て目が覚めます。昨年末から一時期 (4ヶ月ほど)、朝起きて夜寝る 「普通の」 生活にしたことがあって、そのときも目覚まし時計を使わなかったのですが、6時間眠れば自然と目が覚めた──不思議なことに、昼夜逆転の生活のほうが睡眠時間は 1時間ほど多く 、世間で云われている 「(睡眠不足にならない) 7時間睡眠」 になる。昼夜逆転の生活を大学生の頃から送っているのですが、「不規則な生活」 という訳ではなくて、昼夜逆転しながらも、「規則正しい生活」 になっている www.

 「老い」 を感じてから身体運動・食事に気を配るようになったけれど、よくよく考えてみれば、昔から 「健康な生活」 と云われてきた要件すなわち 「充分な睡眠をとり、健康な食事をして、まいにち 運動をする」 という極々当たり前のことに改めで思い至ったというだけのことです。でも、この当たり前のことを実践するのが難しい、というのが現代社会の歪 (ひず) みなのでしょうね。自由主義・資本主義の社会では、どうしても競争は避けられない。自由主義は 「機会均等」 を謳っているので──現実問題として、社会制度のなかで 「機会均等」 が実現されているとは私は 毛頭 思っていないけれど──、少年期を終了したら、(青年期からは) 本人の 「努力 (自助)」 で人生を設計して その設計図に沿って人生を建設していく社会制度に (建前上は) なっている。我々の人生は、健康寿命の平均値で云えば 70数年だそうなので、20歳 (成人式の年齢) を 「自助」 の起点にして計算して 70歳まで 50年間が健康に労働できる年齢ですね、私は今月で 68歳になるけれど、自らの人生を振り返ってみれば、50年間は長いようで短く感じる、今もって 20歳代・30歳代に体験した重立った出来事が生々しく蘇る。ちなみに、(私が介護施設で働いたときの体験から云えば [ 5年 3ヶ月働きました ]) 認知症の人は近い過去のことは忘れても遠い昔のことは生々しく覚えているようです。人生に関して、米国の調査ですが、80歳以上の老人に アンケート 調査した質問のなかに 「人生で最も後悔したこと」 というのがあって、老人の 70%が同じことを綴っていました──「チャレンジ しなかったこと」 と。日本と米国では社会制度が違うので、米国の調査結果がそのまま日本にあてはまるとは思われないのですが、日本の社会制度の多くを米国のそれから真似ているので、日本でも ほぼ同じような返答になるだろうことは想像できるのではないかしら。

 私は若い頃を振り返って、改まって チャレンジ してきたということはないけれど、それでも私の人生 (精神、思想の領域) の転機となることは三つほど存る (それらを述べることは ここでは割愛します)。そして、私は、それらの転機を体験して、私の精神・思考が どのような遍歴をしてきたのかを凝視してきました。その遍歴を私は 毛頭 後悔していない──勿論、その渦中にいたときには、苦しみ悩み 「私など この世にいないほうがよかった」 と悲観して落ちこんだこともある。そして、68歳になる今、過去を振り返って、それらの苦しみ・悩みは昇華されて、現時点から逆算してみれば、「やるべき時に やるべきことを やってきた」 という印象しか遺っていない。私のような程度の凡人でも、自らの人生を振り返ってみれば、凡人は凡人態 (なり) に ドラマ がある──これはすべての人に云えることでしょう、生きていば。私は、もう一度 子どもに戻って人生をやり直すとしても、きっと同じ人生を歩むでしょうね。

 我々は、生まれてから死ぬまでのあいだ、ひとつの命として、「起承転結」 の周期を辿る──「起」 は誕生、「結」 は 60歳から死ぬまで、そして 「承」 は 20歳代・30歳代、「転」 は 40歳代・50歳代と考えてまちがいないでしょう。「結」 が長ければ寿命が長いというだけであって、書物に喩えれば、我々は人生の 「承・転」 すなわち 20歳から 60歳までの 40年間のあいだに本文を記述して、その後の 10年間は 本文に対する註釈を綴っていくのでしょうね。私のことを言えば、20歳代・30歳代で身についた考えかたや仕事の技術が 40歳代・50歳代の仕事の基礎となって、40歳代・50歳代で着想して整えた仕事の技術を超えるような考えは 60歳代以降には (悲しいかな) 一切 生まれていない、、、60歳代にも着想は いくつか出るには出るけれど、それらは あくまで 40歳代・50歳代に作った技術に対する微調整にすぎない──率直に言えば、新たな着想が出ないのです、以前の技術に対する註釈を綴っているにすぎない (泣)。その変遷が人間の life-cycle であるとわかっていても、下降を辿ることを私は悲しいし悔しい。体力・知力の衰退に抗うように、私は、今、75歳を人生の絶頂 (到達すべき完成形) と見做して [ 妄想して? ] 改めて身体運動・食事に気を配って、絶頂に近づこう (あるいは、絶頂を作ろう) と発奮しています──ちょうど、富士山を登山するように山頂を目指して。

 
 (2021年 6月15日)

 

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